東京町田市の虚無僧寺『探墓行』☆南松寺
町田市には菅原道真を御祭神とする天満宮である天神社が三つあり、町田三天神と呼ばれている。
なんとその三つのうちの二つの神社の別当寺が虚無僧寺であったとのこと。
【別当寺】というのは、奈良時代から神仏習合説によって、神社に併設された寺のことで、神護寺、神宮寺、社僧ともいう。別当寺は神社の運営、行事に干渉した。
今回は、前回の神奈川の探墓行の続きで、尺八研究家の神田可遊氏と有志の方々に同行させて頂いた町田篇となります。
まずは南大谷天神社へ。神社境内にかつての虚無僧寺の遺跡があります。
南松寺は1620年代の開基。
大谷天神社の別当寺でありました。
『町田市史』によると、南松寺は、南大谷天神社の今の社務所付近にあったという。神奈川の西向寺の末寺である。『風土記稿』には「本堂二間に五間、本尊阿弥陀を安置す、開山開基詳ならず」とあるが、いま当時廃址の墓地に「当時開山悟心源了庵主 承応二年正月廿日」の墓石があるので、開山は悟心源了、創立は正保・慶安の前後(十七世紀中頃)と推定される。
この五十嵐姓は、この部落には大変多いのだそうですが、元は越後国五十嵐庄(現在の下田村)から全国に散っていったもので、この付近の人々の祖先は上杉謙信の関東遠征に従って来て、ここに定着したものといわれているそうです。
(神田可遊著「町田三天神と虚無僧寺」より)
本殿に行く階段の途中に、虚無僧寺、南松寺の観音堂がある。
大谷山 南松寺
虚無僧記念碑も建立されている。
この観音像は、昭和37年の天神社改築の際、社殿の中から発見されたそうな。廃寺の時、虚無僧(恐らく西向寺の謙譲であろう)が、廃仏の危機を逃れる為に隠したのであろうとのこと。
観音像の底には、「寛文四甲辰五年一日」の日付があり、1664年とは二世の南印分舎の代に造られたものなので、普化宗本尊の中で最も古いものではないかとのこと。なお、この仏像は昭和三十年頃、部落の人によって修理されているそうです。(富森虚山、原虚伯調査記録より。『郷土町田町の歴史』にも記載あり)
位牌は二枚。同じく、社殿改築の際発見された。
以下、一枚は歴代住職のもの。
ウラの百七十三年など、年の後の年は不明。古いほど多いということは、この位牌を作った時点での何年前ということだろうか。
もう一つの位牌。
傑秀寉我とは傑秀看我のことで、この名前は古文書類におびただしく出てくるとのこと。薩摩の人であったらしい。
また、本殿には一月寺109世長運観守による「正一体 天神宮」の扁額があるそうです。
そして、この観音堂の右手の上に少し上がった場所に、コの字型に墓と供養塔らしきものが十基並んでいる。
以前は社殿の右後方の現在宅地になっている場所にあったもので、昭和三十八年、宅地造成のため建設会社が埋めようとしたものを、部落の人達が現在位置に移したとのこと。部落の皆さまに感謝🙏
墓の中央には、「開山悟山(心)源了」の墓。
そして、
観音堂の前で献笛。
このように立派な観音堂に、本尊の観音像、十基もの墓や供養塔が遺されているとは、ご近所の皆さまに感謝です。四月十七日には観音様の祭りがあるとのこと。是非行かねば!
なお、『町田市史』の(五十嵐正孝家文書)によると、宝暦・安永ころ(十八世紀中頃)南松寺と村民との間にしばしば衝突があったそうな。これは普化宗の本質に関することであったろう。と『町田市史』には見解されております。
もう一つの虚無僧寺、大沢寺はここから歩いて行ける場所にあります。
次回に続きます👣