静岡の虚無僧寺 無量寺☆『探墓行』👣其の二
無量寺最後の虚無僧 小栗一角斎の墓あり。
其の一はこちら↓
いよいよ、無量寺の菩提寺
高野山真言宗 音羽山清水寺
境内には、俳句の碑がいくつかあります。
石仏も沢山あるのですが…、
頭が無いのが結構あります…。
廃仏毀釈の傷跡でしょうか。
観音堂
家康公寄進の造営で平成四年に解体、復元修理。御本尊の千手観世音菩薩像御開帳は三十三年に一度。
観音堂の脇に、虚無僧の墓があります。
小栗一角斎之塔
正面
小栗一角斎は、格式高い虚無僧の一人であるとのこと。
彼は宝暦から天保にかけて江戸時代末期に実存し、無量寺に於ける最後の虚無僧であったと考えられる。
この塔は本人が生きている時に建立したもの。
向かって左側
いずれも小栗一角斎、彼本人の畏敬する普化宗に関係のある人物の名前が刻されている。
普化大禅師は、言わずと知れた普化禅師のことで、圓明国師は法燈国師のこと。古山禅師は、一月寺開祖の古山靳先。
向かって右側
藤原門雅は俗名で、花押は彼の別名であると考えられる。この文章から、彼は1754年生まれで、1782〜1829年まで普化禅を修行したということになる。
墓碑背面
竹伺とは彼の竹号と考えられる。
「正直の心は永年の宝である」という意味。
虚無僧が、わりと分かりやすい事を彫り残してくれていて、少し嬉しい。笑
その尺八のレリーフの下に蜘蛛のような生き物。小川春夫氏によると、「尺八は、下のカニのようにゆっくり修行しろ」との注釈。
(蟹には見えないんだけどなぁ...)
こちらは小栗一角斎の墓。
小栗一角斎は天保八年(1837)十二月廿四日没。
享年八十二歳と思われる。
法塔を建立しわずか五ヶ月後に没している。
法名は、「碧眼獅睡井居士」
意味は、「青く美しい岩石(清水山)の上に泰然として眠る獅子のように」
竹号は、竹伺。
虚無僧ネームは小栗一角斎。
俗名は、藤原門雅。
別名は、花押。
…と、
戸籍上の名前ひとつを暗黙に強いられている現代からすると自由でいいですな。
(かくいう私もポストに3つの名前が書いてあり、隣のおばちゃんがある日それを凝視していたり、不動産屋から一体何人住んでるんですか?!と電話があったこともあります。笑)
その他、水鉢に刻まれた世話人の名前。
名前に時代を感じます。
「再立」とあるのは、塔の建立後また何か再建したのでしょうか。
花立てには、「辰年男」「午年男」とあります。
彼の没後三十四年後、明治四年に、普化宗は廃宗となり、ここ無量寺もまた廃寺となりました。
尚、塚本虚堂先生の遺品『尺八史孝』に書き込まれたものによると、
とのこと。
喘息の守り神が虚無僧って。
分かるような分からないような…。
その他、無量寺の古文書、本則、免許状などが、虚無僧研究会発行の『一音成仏 第四十一号』小菅大徹著「駿河無量寺の記録」に掲載されております。
永山という弟子に愛璿が出した「尺八指南免許状」や、駿州、遠州二州の吹笛修行の永代免許状などあり、ここ無量寺がれっきとした虚無僧寺であり、愛璿が虚無僧として任務をこなしていたことがよく分かります。
さて、
ここで今一度振り返り、上述の免許状のことに、其の一に載せた『駿府風土記』に描かれた無量寺の様子も想像すると、ますます虚無僧に対する憧憬の念が強くなってまいります。
一体どんな毎日を過ごしていたのでしょうか。
改めまして、無量寺『探墓行』にあたり、史料を提供してくださった尺八研究家の神田可遊氏に感謝です。
そして、虚無僧寺探索をしてくださった先人の皆様にも感謝!🙏
心配なのは、『日本虚無僧』の碑。小菅大徹著「駿河無量寺の記録」によると、市史編纂課、教育委員会も承知していなく記録類にないとの事。藁科氏に調査を依頼した旨は記載されていますが、その後もこのままという事は調査はされていない模様。
地元の方に何とか保存してもらえるよう、願うばかりです。
古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇