さらに詳しく!調布の虚無僧寺☆大光山三照院安楽寺について
「吹破る竹の音寒し 安楽寺 如月」
これは、虚無僧寺安楽寺の本尊、阿弥陀如来像の厨子の左扉に書かれていた句。阿弥陀如来像は1994年まで調布の大正寺本堂左側に現存していたと記録がある。
安楽寺については高橋空山が1937年(昭和12年)発行の『三曲』に「調査書」を投稿し、その後、1972年発行の山下彌十郎著「虚無僧 普化宗鈴法寺の研究」(多摩郷土研究の会)、1993年小川春夫氏の調査書と続いている。
その資料を元に、かつての虚無僧寺・安楽寺の詳細をここにまとめたいと思う。
現在、十基のお墓があるにしても、まさに十把一絡げで単に「虚無僧の墓」とだけにしておくのはあまりにも寂しい。
一つ一つの墓には、それぞれの名前、そして彼らの人生があるのだ。
彼らの人生については流石に全く謎ですが…。そちらの方が本当は興味深い。
まずは、史料提供してくださった尺八研究家の神田可遊氏に感謝です🙏
普化禅宗活惣派(旧火下派)
末寺筆頭寺
大光山三照院安楽寺
尚、火下派というのは、武蔵国にあった薦僧の門派。
『高野山文書』の中の『暮露薦僧本則』に記載があります↓
<場所>
武州布田郷(武蔵国多摩郡調布上布田)
東京府北多摩郡字調布町上布田354番地
(高橋空山記載によると南多摩郡となっているが北多摩郡の間違いと思われる)
上布田とは、甲州街道沿いにあった布田五宿の宿場の一つであった。
旧甲州街道沿いの布田一丁目あたり。お墓調査の時に声をかけてくれた墓石屋のお兄さんは駅前のパルコの辺りと教えてくれた。
現在の「上布田」という場所は河川敷で住民登録はされていない場所。
<菩提寺>
栄法寺(現・真言宗大正寺墓地)
現・真言宗大正寺は、廣福山栄法寺と、紫雲山寶性寺、三栄山不動院の3ヶ寺が大正4年に合併、三栄山大正寺として創建された。現本堂は、栄法寺の本堂を、観音堂は不動院より移設。
堂宇は本堂と別に庫裡とがあり、境内には墓地もあった。葬式その他の法要は、真言宗栄法寺に於いて行われた。
除地とは、 江戸時代、検地帳などの記載から除かれた土地のこと。
一段(反)たん=畳600畳分
一畝=30坪=99㎡=30歩
一歩=1坪
三段六畝八歩、
ということは、そこそこ広かったことが伺われます。
安楽寺歴代住職
○開山
大光南洲大居士
元亀ニ辛未(1571)年九月廿六日(示寂年月日)
○二世
頓山孤雲大居士
天正十四丙戌(1586)年三月廿日
○三世
風外了道人
元和三丁巳(1617)年十月十二日
○四世中興開山
三照哲秀道人
寛永十一甲戌(1634)年四月三日
●七世
妙賢禅丈居士
慶安二己丑(1649)年八月廿八日
●八世
松來浄裕居士
寛文九乙酉(1669)年十一月十五日
●九世
普應祖天和尚
元禄四辛未(1691)年四月十六日
○中興開山・十世(福正寺中興四世)
秋山落葉和尚
宝永三丙戌(1706)年八月十九日
●中興二世・十一世
浄覚玉圓居士
宝永四丁亥(1707)年五月一日
●中興三世・十二世
釋随圓正居士
正徳四甲午(1714)年七月十五日
●中興四世・十三世
誠山妙林居士
正徳五乙未(1715)年六月五日
○中興五世・十四世 (後に鈴法寺廿五世となる)
心月雲休大和尚
享保七壬寅(1722)年十一月廿一日
●中興六世・十五世 (後に鈴法寺廿六世となる)
嘯山勇虎大和尚
明和六年十月九日
○中興七世・十六世(福正寺中興七世)
栄心天郷和尚
天分元丙辰(1736)年八月十七日)
○中興八世・十七世
宅翅惠俤〈宒翁惠伄〉
延享四丁卯(1747)年十月三日
○中興九世・十八世(福正寺中興六世)
法山不推和尚
明和三丙戌(1766)年 五月廿二日
○廿一世
意着優波座元〈意石優婆塞〉
天明八申天年(1788・戌申)六月十日
●廿二世 (後に鈴法寺廿八世となる)
竹渓嘯虎禅師
文政十年(1827)七月三日
●廿三世
來山藩英座元
文化十一(1814)年十二月廿一日
●廿四世 (後に鈴法寺三十世となる)
閑山戢我和尚
天保八(1837)年八月四日
●?世 (後に鈴法寺三十二世となる)
澄源有道
慶應元(1865)年十二月廿七日
○墓あり
●墓なし
「尚此過去帳には書いてないけれども、其後(鈴法寺)第三十二世を継いだのは一月寺派末寺頭清山寺看守澄源有道和尚で、之れは弘化三年の事である。有道和尚は清山寺看守から一旦鈴法寺末の武州布田の安楽寺看守となり、後鈴法寺の法統を継いだのである、寂年は慶応元年十二月廿七日享年七十五歳、之で鈴法寺の住職は終わりであります。」(中塚竹禅著『琴古流尺八史観』より)
十四世以下は過去帳には無いが、厨子裏面に書いたもの、並びに澄源有道の事は、新宿法身寺の墓碑銘によって付したもの。(高橋空山の調査書より)
安楽寺調査の歴史
現時点で墓碑は十基。
1937年(昭和12)高橋空山が安楽寺についての調査。その時点では15名の住職の墓があると記載。
1970年(昭和45)1972年発行の山下彌十郎著「虚無僧 普化宗鈴法寺の研究」(多摩郷土研究の会)によると、1970年大正寺住職、芝村亮豊師が霊園の中央に安置し保存工事を行い、二回に亘り虚無僧の供養の大法要を行う。その時は角塔婆が残されていた。大正寺霊園の虚無僧の墓は7基になっている。
1993年12月19日、大正寺霊園の無縁墓地で小川春夫、黒田裕泰両氏で、昭和17年(1942)より行方不詳、墓碑2基を再発見。その資料によると、不明の七世と八世の墓は二人で一つであるとのこと。
ということで、計14基の墓が存在するも、この時点では9基の墓碑が残されていた。
以来、墓碑不詳5基、6住職であったが、1994年以降、中興開山の秋山落葉和尚の墓1基が発見されたようである。発見されたのはいつかは不明。現在墓碑行方不詳4基5名。
大正寺に保存されている十基の墓
右から。
<一基目> 無縫塔
開山
大光南洲大居士
元亀ニ辛未年九月廿六日
<二基目> 無縫塔
二世
頓山孤雲大和尚
天正十四丙戌年三月廿日
<三基目> 無縫塔
三世
風外了道人
元和三丁巳(1617)年十月十二日
<四基目> 無縫塔
四世
四世中興開山 三照哲秀道人
寛永十一甲戌(1634)年四月三日
<五基目> 無縫塔
中興五世・十四世
心月雲休禅師 享保七壬寅(1722)年十一月廿一日
鈴法寺二十五世として示寂されたので九代となっているのは何故かは不明。
<六基目> 無縫塔
中興九世・十八世〈福正寺中興六世〉
法山不推和尚 明和三丙戌(1766)年 五月廿二日
<七基目> 無縫塔
中興七世・十六世〈福正寺中興七世〉
栄心天郷和尚 天分元丙辰(1736)年八月十七日
<八基目> 方形墓
中興八世・十七世 宒翁惠伄庵主 延享四丁卯(1747)年十月三日
<九基目> 蒲鉾形墓
廿一世
意石優婆塞 天明八申(1788・戌申)天〈年〉
<十基目>(八基と九基目の後ろ) 方形墓
中興開山・十世(過去帳無し)〈福正寺中興四世〉
四世 秋山落葉庵主 宝永三丙戌(1706)年八月十九日
語句解説
<墓の形>
【無縫塔】(むほうとう)主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)。塔身が卵形という特徴があり、別に「卵塔」とも呼ばれる。
【方形墓】 墓の上部が三角形。1600年代から1700年代のものが多い。
【蒲鉾形墓】1700年代後半から1800年代にかけての一般的なお墓。
参考↓ こちら方のブログに古いお墓の形について詳しくあります。
<名前の後ろについている禅定門、優婆塞とは>
【禅定門】(ぜんじょうもん) 仏語。在家の男子で、仏門に入り剃髪している者。転じて、男子の死者の戒名(かいみょう)に与えられる称号。
【優婆塞】(うばそく)在家のままで、仏道修行にはげんでいる人。
計三名の住職が福正寺から転任しています。
福正寺とは
活惣派鈴法寺末寺 稲荷山天晴院 福正寺(元寄竹派)
<場所>武蔵榛原(はいばら)郡深谷(現・埼玉県深谷市)
起源は平安初期に開かれた古刹で頭初から稲荷山福正寺と称していたが、次第に衰微してきたのを室町末期に深谷の領主、上杉氏が再興して明暗寺の随法(或は達道)を招いて、中興開山として寄竹派の普化宗となったと思われる。江戸時代の安永八年(1779)に此処の不良虚無僧が殺人事件を起こしたので、宗規紊乱を取り締った一月・鈴法両本寺の圧力で活惣派に転派させられたものと云われている。その後福正寺からは、数名の住職が安楽寺の住職に昇っている。
参考・値賀笋童 著『伝統古典尺八覚え書』
以下不明の墓碑。
昭和十七(1942)年より墓碑行方不詳四基五名。
第二次世界大戦中のどさくさに紛れてなのか...。
さらに、
栄法寺(菩提寺)過去帳には次の門弟の戒名が記載されている。
安楽寺の本尊・尊像
<本尊>
阿弥陀如来像
座像木佛 壱躰
文政五年十一月より本尊。
木造に筆書
「文政五年(壬午1822)十一月再興願主竹居隠居宗原(竹渓・第廿二世)」
像高 25センチ。約八寸・蓮台19センチ(6.27寸)
白木の厨子で、背面(裏面)に
とあり、
左扉に「吹破る竹の音寒し 安楽寺 如月」
右扉に「 芝月 」
と書いてある。
(「干時」は、「ときに」の意。)
→1994年まで大正寺本堂左側に現存。2017年西向寺奉賛会の渡邉照洞師尋ねるも所在不明。
<旧本尊>
薬師如来像
立像(推定)木佛
長さ七〜八寸(21〜24センチ)
文政五壬午(1822)年十月頃本尊以後尊像
明治八亥年十月四日現存。大正三・四年頃流出か。
現在行方不明 壱体
<宗祖像>
普化禅師像
長さ七〜八寸(21〜24センチ)
厨子入 壱体
厨子の背面に、筆書で、
「文政八(乙酉・1825)年 湯島切通(住)木大佛工安岡金兵衛之作」
所蔵者 安楽寺ー某師ー昭和の初期・大山吾童師ー初代川瀬順輔師(ここまで確実)ー長男川瀬順一郎所蔵(推定)ー竹友社関係者所蔵。写真有り。
平成六年九月に関係者を通して現竹友社宗家に同行を聞くが一切行方不明との答えを聞く。
「諸什物記」明治八亥年十月四日改 栄法寺
一、薬師如来
但し安楽寺より預かり長さ七〜八寸(21〜24センチ)壱体
長さ七〜八寸(21〜24センチ)は石佛也(栄法寺)
いずれも、仏像はほとんど行方不明😭
大正寺にて、お墓の確認をしていた時、
墓石屋さんという男性が、虚無僧のお墓ですか〜?と声をかけてくれました。
その方、「数年前に虚無僧の装束の人達が20名くらいでここで尺八吹いてましたよ。」と話してくれました。恐らくそれは2017年西向寺奉賛会の渡邉照洞師、他の皆さんがこちらにやって来た時のことでしょう。
そのことは、たまたま西向寺の献奏会での報告の渡邉照洞師とのメールのやりとりで、そのことも書いてくださったから知ったのでした。
すごい。生き証人に会ったみたいでした。
こういう方が実はよく知っているのかも。
それにしても、お墓、どこいっちゃったんでしょうね〜〜〜泣
あと、普化禅師昇天の木像も。
1994年9月に関係者を通して現竹友社宗家に同行を聞くが一切行方不明との答えとのこと。
どなたか、ご存知の方、情報求むです🙏
さて、
虚無僧さんたちのお墓の詳細が分かったことですし、
お花でも供えに、
是非!お参りに!
調布にいらしてくださいまし🙏
虚無僧墓マイラー、やりましょう♪