かぶき者と古無僧
関ヶ原の戦いや、徳川家康による江戸幕府開府、大坂冬の陣・夏の陣を経て大坂城の落城(豊臣氏滅亡)などがあり、時代が大きく動いたという慶長年間に書かれた、『慶長見聞集』に「古無僧」が登場します。
泉武夫著『竹を吹く人々』の解説によると…
また保坂裕興著の「十七世紀における虚無僧の生成」によると…
最後に、かぶき者について、こちらのブログでとてもわかりやすい説明がありましたので転載します。
町奴 ( かぶき者 )
かぶき者(かぶきもの。傾奇者、歌舞伎者とも表記)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。特に慶長から寛永年間(1596年~1643年)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味である。
かぶき者になるのは、若党、中間、小者といった武家奉公人が多かった。彼らは武士身分ではなく、武家に雇われて、槍持ち、草履取りなどの雑用をこなす者たちで、その生活は貧しく不安定だった。彼らの多くは合戦の際には足軽や人足として働きつつ、機をみて略奪行為に励み、自由で暴力的な生活を謳歌していたが、戦乱の時代が終わるとともにその居場所を狭められていった。そうした時代の移り変わりがもたらす閉塞感が、彼らを反社会的で刹那的な生き方に駆り立てたという側面があった。
かぶき者たちは、一方で乱暴・狼藉を働く無法者として嫌われつつ、一方ではその男伊達な生き方が共感と賞賛を得てもいた。武家奉公人だけでなく、町人や武士である旗本や御家人がかぶき者になることもあった。寛永期頃から江戸に現れる旗本奴、町奴といった無頼集団もかぶき者の一類型と見られる。また、1603年(慶長8年)に出雲阿国がかぶき者の風俗を取り入れたかぶき踊りを創めると、たちまち全国的な流行となり、のちの歌舞伎の原型となった。
歌舞伎とはかぶき者の風俗を取り入れたかぶき踊りが原形だったんですね!
その大鳥一兵衛は、厳しい拷問を受けながらも仲間の名は最後まで吐かず、代わりに全国の大名の名を書き出してみせたといいます。彼はまた、刀のなかごに「廿五まで 生き過ぎたりや 一兵衛」と死を恐れぬ心意気を刻んでいたそうな。
この『慶長見聞集』に登場する、かぶき者と古無僧(虚無僧)は、戦国の世でもしかしたら同じ人生を歩んでいたかもしれない似た者同士。
かぶき者で派手に生きるか、虚無僧で仏道に入るか、両極端のようで生き様の儚さは同じに感じます。
大鳥逸平が描かれた歌舞伎の浮世絵。
右上の刀を振り上げているのが大鳥逸平。左の腕ノ喜三郎は侠客です。かぶき者は武士に縁のある者だったようなので、侠客とは着物が違います。江戸時代になると、侠客も尺八を腰に差している浮世絵は沢山あります。
この頃はいかに尺八は人気があったか!
羨ましい!
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