虚無僧もしくは尺八の先生になりたかったらすべきこと☆江戸時代篇
黒沢琴古シリーズ☆其の四
江戸時代、尺八は虚無僧しか吹けなかった!
ってことは無かった!
…ということは、皆さんも薄々知っているかと思いますが、ではどうやって虚無僧の専売特許ならぬ専吹特許であった尺八を、虚無僧や武士身分の人以外は吹いたのか?
尺八研究家の神田可遊師に教えていただきました!
まずは、
本則システム!
(虚無僧 及び 尺八指南☆免許証の取り方)
「尺八指南」の看板についてはこちらですね↓
「尺八指南」とは、本則を取り次ぐ人のこと。「取次連中」とも言われる。その時「則名」も決めておくとのこと。
「本則」があれば、虚無僧もでき、尺八指南にもなれる。「本則」を出すには、常に虚無僧寺の許可が必要。建前としては百姓町人には発行できないことになっている。
「本則」を出せるのは虚無僧寺で、住職か看主の名前で出す。
一月寺、鈴法寺は住職がいないときは院代(末寺住職)か出役(末寺看主)の名前で出す。
教えた人、例えば「琴古」の名前で本則は出せなかったのですね。
「ある程度上達したら」という辺りは、今とあまり変わらない、というか今も続いているような…。
こちらが一月寺の本則。
縦が4寸半(約13センチ)です。
書いてある事、左の方から順番に書かれています。
越後明暗寺の「鈴鐸話」
「本則」にはハンコが沢山押されておりますが、その名前、こちらも左から順番に、
ハンコ社会ですな〜。
先程の一月寺の本則の後ろの方。
途中で①関防印が押されており、一月寺出役澄源有道「先代授与之本則相違無」日付は天保十四年とあります。現住の宵海蛟竜は天保十三年に亡くなりました。
こちらは本則の入っていた紙の包み袋。
これを、懐に入れて持ち歩いていたのでしょうか。
2024年の虚無僧研究会総会では、本則の展示がありました。その時、神田可遊師に本物を触らせてもらいました。和紙が丈夫で驚いた記憶です。
↑この時は、ハンコのこともちんぷんかんぷんでしたが、ようやく名前を理解出来ました。神田師に感謝です🙏
本則を取得した宇土三万石六代目殿様のこと。
江戸時代、肥後熊本細川家の支藩である宇土細川家の六代目藩主、細川興文が黒沢琴古より尺八を習ったことが詳細に記されている文献が残っており、小菅大徹著『江戸時代における尺八愛好者の記録 細川月翁文献を中心にして』に詳しくあります。
54頁には、細川月翁が安永二年に一月寺の鉄透祖関からとった本則の写真の掲載がある。
本則の鉄透祖関は、一月寺百八代住職で、出身が月翁と同じく九州の出であったとのこと。
月翁の竹号は「来鳳」。
著者の小菅師が記すに、
「前代未聞の宇土三万石六代目殿様の普化宗本則者が誕生した」
のだそうだ。
この翌年、安永三年(1774)には全国的な規模で「狼藉虚無僧の取締り令」が出されて本則の発行も厳しくなったとのこと。
まえがきには、
「普化虚無僧寺では、尺八は法器であるという立前で一般人の尺八愛好を厳しく制限していたと考えられていたと考えられていました。しかし、実際には僧俗を超越して限りなく楽器に近い法器を虚無僧とは別の見地から真摯に取り組んでいた尺八愛好家が各地に居たのです。」
とあります。
それについてよく分るのが、「尺八上調子下調子について」という書翰(手紙)が遺されている。
細川月翁が、琴古に尺八の調子について質問状を出し、その返答書のこと。(115頁)
その文面の内容により、この頃すでに移調、転調の研究がなされていたことが分かるとのこと。
初代琴古は、本手一尺八寸管に対して、曙調子は1.3尺管、雲井調子は2.3尺管或は、曙調子2尺管、本手1.3尺管、雲井調子1.8尺管で同音合調ができることを発見。
この事は当時、法器として考えられてきた尺八を音楽器として目を開かす事となったと考えられる、とあります。
もうこの頃から、一寸ごとに製管され正確に調律された尺八があったということなんですね。
さらに詳しくはぜひぜひ『江戸時代における尺八愛好者の記録 細川月翁文献を中心にして』をお読みください。
当時も今も、この尺八という魅惑的な楽器を人々はあれやこれやと探キュウし、研キュウし、さらには欲キュウにまかせ、あっちに、こっちに希キュウし…、
遂には、というか、結局は求道に陥るか?
…と、今回は、「本則システム」について!ということで、琴古から脱線しましたが、次回はようやく『琴古手帳』の尺八曲目にいけそうです。 「尺八指南」の本則を取次いでくれる人達とは一体どんな人達か?今とはまた違う尺八免状のシステムをさらに読み解きます♪