虚無僧寺総本山鈴法寺☆総まとめ
普化宗総本山とされている鈴法寺の過去現在を徹底調査!
廓嶺山 虚空院 鈴法寺
括惣派惣本山触頭
場所:武州多摩郡青梅村
(現在:青梅市新町364)
遺跡:青梅市新町1丁目22-18 鈴法寺公園内
番所:牛込納戸町
(現在:新宿区納戸町)
菩提寺:
金賜山東禅寺 臨済宗建長寺派
青梅市新町418
月海山法身寺 臨済宗円覚寺派
新宿区3-82
本尊:薬師如来
『新編武蔵風土記稿』とは、文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌。昌平坂学問所(林羅山が起源)地理局による事業(林述斎・間宮士信ら)で編纂された。1810年(文化7年)に起稿し、1830年(文政13年)に完成した。全265巻。
山下弥十郎によると鈴法寺を描いたと推測されている。
総本山と呼称されてはいるが…
「風呂後」という地名残る
歴代住職
開山
活惣了 大居士 文永三(1266)年二月廿三日
二代
密雲哲秀 居士 正応二(1289)年三月二日
三代
的応祖覃 居士 永仁五(1297)年九月廿二日
四代
梅岩祖雲 居士 嘉元二(1304)年十月十四日
五代
普賢了智 道人 正和三(1314)年八月十日
六代
碧点寥大 居士 嘉歴三(1328)年五月十二日
七代
雲月意風 居士 建武二(1335)年五月三日
八代
寂瑞益順 居士 暦応三(1340)年七月十八日
九代
雲外祖晫 禅師 延文二(1357)年正月廿日
十代
徳堯心悦 禅師 貞治二(1363)年十一月廿九日
十一代
察現是了 居士 永和四(1378)年二月十九日
十二代
安存補穏 禅師 嘉慶二(1388)年六月廿四日
十三代
秋道三智 居士 応永十二(1405)年十二月五日
十四代
不混政易 居士 応永卅三(1426)年十月八日
十五代
此行密休 居士 宝徳三(1451)年四月廿六日
十六代
糺適不残 居士 文明二(1470)年十一月二日
十七代
湛空巨円 大和尚 天文廿三(1554)年十月十七日
十八代
甲夢中 道人 永禄二(1559)年十一月六日
十九代
山堂無月 禅師 慶長三(1598)年二月七日
⚠ただし一糸文守は、1608年生まれの為、現実的にはこの話は成立しなくなります。尺八研究家神田可遊氏にご指摘頂きました。
廿代
月山養風 禅師 元和二(1616)年八月十四日
廿一代
円月無久 座元 寛永十(1633)年五月十三日
廿二代
一法伝無 禅師 慶安元(1648)年二月十一日
廿三代
万岌一心 和尚 元禄七(1694)年十二月廿五日
廿四代
頓良祖隠 和尚 享保元(1716)年十月十六日
廿五代
心月雲休 禅師 享保七(1722)年十一月廿一日(調布安楽寺の中興五世・十四世。大正寺に墓有り)
廿六代
嘯山勇虎 禅師 明和六(1769)年十月九日
(調布安楽寺の中興六世・十五世。墓は伊勢原市の大福寺。
廿七代
空山祖来 禅師 寛政八(1796)年六月廿三日
廿八代
竹渓嘯虎 禅師 文政十(1827)年七月三日
廿九世
空応騰雨 禅師 天保六(1835)年十月七日
卅代
閑山戢我 和尚 天保八(1837)年八月四日
卅一代
無着愛璿 和尚 天保十二(1841)年四月十日
卅二代
澄源有道 慶応元(1865)年十二月廿七日
卅三代
海我
新宿法身寺にある歴代住職位牌。
その他、過去帳、番所牛込納戸町所在の仏具等も新宿の法身寺に安置されている。
過去帳
過去帳に関しては、中塚竹禅著『琴古流尺八史観』によると、
と、不審点も記されている。
普化禅師像
千手観音像
吉野織部之助の記した『仁君開村記』
鈴法寺は、慶長十六年(1613)には武蔵青梅に移転。この時の経緯が『仁君開村記』という記録にあり現存している。二十六枚綴じで同地の吉野家に原本が現在残っている。
仁君は、将軍秀忠を指し、秀忠の|御仁慈ごじんじ》により、吉野織部之助が荒野を開墾して新しく部落を開いたという日記風の手記である。尺八に関係のある江戸時代初期の古文書で写本ではなく原本が残っているのは極めて珍しい。虚無僧となった元同僚の子、秋山惣太郎との出会い、青梅での開墾の様子など書かれ、その後に記載は、村の形成の苦心談が日記風に続いている。織部之助が晩年になって書き残したものといわれれる。
吉野織部之助
青梅新町を開拓した人物。
青梅鈴法寺の始まり
『仁君開村記』の修飾と虚構
森田洋平著『新虚無僧雑記』によると、『仁君開村記』の中のいくつかの問題点が指摘されている。
序文にある将軍御鷹狩りはフィクションであろう。
吉野織部之助の同僚、秋山惣右衛門の討死の記述の矛盾。
「虚無僧」という表記から、後から日記風に編集されたものと推定。
鈴法寺の遺跡
この「鈴法寺跡」の石碑がなぜ2つあるのかは、市の史跡から都の旧跡へと管轄が変わったからだそうです。小濱明人氏の講演会にて教えて頂きました。
鈴法寺跡公園の虚無僧墓碑
1)端堂義厚上座 施主疎影
<角形に無縫塔の彫物>
2)文政四巳星 微心思榮上座 七月十九日
<自然石>
3)當寺四世萬久一心座元 元禄七年十二月二十五日
<無縫塔>
→廿三代 万岌一心和尚の墓
4)刻文不明(無銘)
<無縫塔>
5)同上
<無縫塔>
6)同上
<無縫塔>
7)無銘 明和二酉年
<無縫塔>
8)表面中決壊し不明
側面 時世 このゆきを花とはうその......
安永二巳年
<無縫塔>
9)円寂仙岳祖境上座
□月十四日
<無縫塔>
1と2の墓は歴代住職の法名に該当するものが無いので鈴法寺在任の役僧等の墓であろう。
3は山下弥十郎著『虚無僧ー普化宗鈴法寺の研究』に記載がなければ、刻文不明で全く何も分からない状態。
8の無縫塔には、伝承が残る。
地元の人はこの墓のことを元坊様(もとぼさま)と呼んでいた。耳の持病に効験があるとのことで、耳を病むものは、左ないにした縄をこの墓に結びつける。そして病がよくなるとお礼参りに行って縄を解いたのだそうだ。
今ではこの風習もすたれて、詣でる人が少なくなってしまった、と山下弥十郎は書いているが、今では少なくなるどころか、知る人は全くいないだろうと想像する。
鈴法寺の菩提寺、東禅寺
東禅寺には竹渓嘯虎が書いたとされる扁額が保管されている。
「武叢禅林」
長さ六尺、巾三尺六寸
鈴法寺28世住職(安楽寺22世)竹渓嘯虎(1827年示寂)が書いたとされている。鈴法寺廃毀の後、青梅市師岡町の妙光院にながく預けられていたため火災をまぬがれた。
裏に書かれた文。
<内容>
鈴法寺の額が年を経て破損したので再興した。用材の欅は甲州乙黒の明暗寺(山梨県中央市乙黒)の明暗寺境内にあったもの、この寺の住職冠義が筆をふるい、掛宿の虚無僧、菅沼蒔三郎(中塚竹禅によると藤三郎)、僧名華啓という人が彫刻し鈴法寺へ奉納した。
薬師堂
鈴法薬師といった鈴法寺境内にあった薬師堂。明治初年の普化宗廃宗後、東禅寺総門の傍に移建したが、2016年に再建され新しい薬師堂になっている。
青梅街道側に建て替えられた。
薬師堂はこの建物と併設してある。
『新編武蔵風土記稿』の東禅寺には、
「薬師堂 二間余四方木堂なり 南に當り 路を隔たりここも除地の内なり 長一尺余の木像を安す 傍に庵一宇あり 留守の僧これに居る」
とあるので、1800年代に東禅寺にも薬師堂があったようだ。
大正の終わり頃、その移建した後の鈴法寺の薬師堂の須弥壇の下から、鈴法寺に安置されていた本尊仏や宗祖普化禅師像をはじめ多くの仏像が発見された。歴代住職の位牌もあった。しかし、仏体は、顔面、頭部、胴体バラバラになっている惨憺たる状況であったが、頭部を失った宗祖禅師の木造は高橋空山師が修理の約束で持ち帰られそのままという。二十八世の竹渓嘯虎の位牌だけは、原形をとどめ、補修の上東禅寺の須弥壇に安置してある。また薬師仏の厨子の扉の内面には、杉本鬼眠以下十三名宛左右に分けて、虚無僧の名が記してあったそうだが、これも今は無い。
この他、慶応二年四月、「廓嶺山虚空院鈴法寺 虚空院薬師宝前・竜源海我」と明記のある『銅製水盤』が一つ、東禅寺に残されていたというがこれもない。
海我は、鈴法寺最終三十三世の司鑑で、伊豆の功徳山瀧源寺の出身であった。
江戸後期に鈴法寺で起こった事件
江戸後期に鈴法寺で暴力事件があった。文政五年(1822)頃、鈴法寺の牛込御納戸番所の出役交替があった時、活惣派の数ヶ寺が、新出役の選任方法が怪しからんという不満から、上野太田利光寺の貫主、楚雄が深谷の福正寺、小川の高円寺、沢目木(幸手市)の東陽寺、上峰(さいたま市)の松源寺、乙黒の明暗寺、両本寺吹合山田如道、岩橋主馬等を語って、一味30数名が番所に大挙して押し掛け、新出役を拉致して暴行を加えた。一味は、寺社奉行所に捕らえられて処罰されたが、首謀者の楚雄は逮捕される前に逐電(跡をくらまし逃げる)して行方不明となった。一味の中に、一閑流の山田如道も加わっていたが、この如道は後に厚かましくも琴古と名乗ったので、琴古流の久松風陽等に激しく非難されて普化宗門を退去した。この新出役は、元安楽寺の院代をしていた泰巖であるが、この泰巖は初代琴古の時代の一月寺住職、仰雲泰嚴とは年代、派別の相違から全くの別人である。
鈴法寺調査を終えて…
鈴法寺について書かれた本は下記の通りたくさんあり、これをまとめるのは大変だ…と内心思っていたのですが、まだ補足を必要とするものの、一先ず終了。
20年ほど前に初めて鈴法寺公園のお墓と、東禅寺に訪れているのですが、お墓と扁額を見たのみ。昨年行った時もここまで詳しくは知らない状態でした。
こうして調べてみるとまたさらに感慨深い...。
そして今年、古典尺八楽愛好会で『鈴法寺探墓行』を企画したのですが、春先から調整で6月になり、なんとドンピシャで台風が来るという事態に。
東禅寺のご住職に不明点を聞いて鈴法寺調査を完結しようと思っておりましたが叶わず…、が、ちょうどその一週間後に開かれた虚無僧研究会の小濱明人氏の講演会にて、薬師堂の再建のことを知ることができました。鈴法寺を含め、今現在の虚無僧寺情報が一冊の本になることを密かに希望と期待をしております。(小濱氏への特定の虚無僧寺調査への圧がかかっておりました笑)
話は戻り、あとは、竹渓嘯虎の位牌、鈴法寺井戸跡の石碑を確認と、法身寺への墓参りを残すのみです。
今回も、多くの史料提供してくださった神田可遊氏に感謝申し上げます。そして調査をし書き残してくれている先人の皆々様にも感謝🙏
それにしても、虚無僧寺調査をしていると、「〇〇があったが今はない」の連発である。お寺にとっても、古いものや価値のないとされるものはあっても仕様がないので破棄してしまうのでしょうが…。東禅寺の薬師堂にはびっくりしました。
八基目のお墓が耳の病気に効くとは…、どなたかお試しあれ、ですね。
因みに「左ないにした縄」の「ない」は「縄を綯う」の「綯い」。この言葉ももう死語になってしまうかもしれない。
昨今は、縄を手に入れるのがまずは困難か。
古典尺八楽愛好会企画の『探墓行』にて、
「鈴法寺井戸跡」の所在分かりました↓
2024年8月に、東禅寺にて鈴法寺の薬師如来法要がありました↓