明暗對山派さらに深掘り☆對山はどうして明暗三十五世になれたのか。
古典本曲といわれる曲のなかでも、明暗對山派の流れはとても多いのではないかと思いますが、對山本人のことはあまり知られていない気がします。
前回は、西園流の開祖、兼友西園と、名古屋の鈴木治助、後の樋口對山について調べました。
對山派って何ですか?
對山は、名古屋から京都にやってきて明暗教会のトップになり、さらに三十五世まで継ぐことが出来たのは一体何故か?
さらに深堀りしていきたいと思います。
では、
幕末の頃、京都明暗寺はどうなっていたのか
明暗寺住職
その頃、明暗寺には、
渡邉鶴山、尾崎真龍(1820-1888)という虚無僧が明暗寺にいた。(源雲界によると尾崎真龍の没年は1892〈明治25〉年1月12日。)
俣野真龍(1791-1861 )も明暗真法流の系列に書かれていることが多いが、虚無僧ではなく製菅師。現在、5代目がご活躍されているようです。
⚠真龍の読みは二人とも「しんりゅう」ではなく「しんりょう」
1830−44年(天保年間)の頃
尾崎真龍の師、渡辺鶴山が明暗寺役僧を辞任して、紀伊新宮に帰り尺八指南所に「明暗真法道場 天保甲午(5年)秋日 真龍軒鶴山」の看板を掲げていた。
(山上月山説ではこれは源雲界が書いたものであるとも言われている。)
真龍は新宮で車引きだったらしい。
中塚竹禅が記すに、新宮まで来た虚無僧が暴れたり喧嘩したりして警察の駐在所の厄介になる場合に、一人二人のお巡りさんでは持て余すことが往々あり、このような時に真龍が出て行くと、一遍で見事にピタッと納まったという、昔取った杵柄で、虚無僧に対しては昔の権式が残っていたものということだそうだ。
尚、真龍の伝えた明暗寺の曲は、文化14(1817)年霜月「蘭山丈」に宛てた「當流尺八目録」で、「虚霊山明暗寺宗役 寄竹流尺八師範 蘭斎」とある通り「寄竹流」と称していた。
蘭斎は通称・大滝富士輔。清水寺に扁額を納めた人だそうで、塚本虚堂先生の縁戚にあたるとのこと。なお、寄竹流より真法流は曲数が2倍になっており、曲順も違う。
1864年頃、
明暗寺三十三世の幻堂観妙は、長州兵を匿ったかどで捕縛される。後、出獄して、1866(慶応2)年大阪で死去。
但馬出張所の虚無僧、素行が生野の乱で捕まる。京都・六角獄舎で禁門の変の際、殺害される。
【生野の乱】文久3年(1863)福岡藩士平野国臣らの尊王攘夷派が、大和の天誅組に呼応して公卿沢宣嘉を擁し、但馬国生野で起こした武装蜂起。近辺の豪農や農民を動員し、代官所を占拠したが、藩兵に鎮圧された。
【禁門の変】元治元年(1864)に起きた戦い。その前年の文久三年八月一八日の政変で、京都での地位を失った長州藩は、勢力回復のために種々画策したが思うようにいかず、この年、藩の家老三人が兵を率いて上京し、七月一八日、会津藩、薩摩藩の兵と京都御所蛤御門の付近で会戦して敗れた。その後の第一次長州征伐の端緒となる。蛤御門の変。元治の変。
1868年、明治に改元
1871年(明治4年)
普化宗廃宗。
明暗寺看主三十四世、自笑昨非居士(明暗覚作)は残務整理をし、本尊の虚竹禅師像を懇意であった東福寺善慧院住職の和尚に贈り、表門は売却、退転した。
なお、明暗寺の遺物は自笑から上田静香(雅楽師の神田静香か)に預けられたそうで、その一部が中尾都山へ渡った。
1885(明治18)年
鈴木治助、後の樋口對山が30歳の頃に京都に出る。
1886(明治19)年頃
東福寺本堂が焼失。
1890(明治23)年
明暗教会が東福寺善慧院に設立される。樋口對山の肩書は訳教、尺八師範長、理事長など。
東福寺本堂再建募金の一助のもと、管長の許可を得て、虚竹禅師の木造を中心に、善慧院内に虚無僧の団体「明暗教会本部」が設立され、行化托鉢の任免を司ることになった。
一方、尾崎真龍の弟子の勝浦正山(1856-1942)は、本職の虚無僧の長老として京都支部長を任命される。
共に1856(安政3)年生れの樋口對山と勝浦正山は、同じ明暗教会の傘下にあって、相互猛烈な闘志は内心に秘めながらも、常に和気あいあいとして交際していた、と塚本虚堂が書いている。
勝浦正山は、尾崎真龍から受け継いだ明暗寺伝曲(40数曲)以外に他からも学び、『明暗真法流曲』として63曲に纏め、譜もフホウエヤ譜のまま受け継ぐ。
1914(大正3)年
樋口對山が亡くなる。普化塚重修碑に小林紫山以下21名の名があり、初めて「明暗對山派」と表記される。
1917(大正6)年頃
明暗教会別則には、
第2条「本会ノ尺八流名ヲ左ノ通総称ス 明暗流」→本会の尺八流の名前を、明暗流とする
第13条「當流ヨリ出テゝ一派ヲ立テントスル者ハ本会ノ認諾ヲ派名ヲ称スルコトヲ得」→当流から出て、新しい一派を立てんとする者は、本会の承諾を得て派名を称する事。とある。
「明暗對山派」の表記について、
さらに、
と、それぞれ「明暗ナントカ」を名乗っていましたが、今は「明暗對山派」と統一されている、ということになっています。
『明暗真法流』が始まったのは?
現実に「明暗真法流」と書いたのは勝浦正山。
樋口對山が明暗教会の訳教となり、「明暗流」と称することになった時に、尾崎真竜の後継の勝浦正山は、古来の寄竹派明暗寺の尺八を吹く自分たちが明暗流だと思っていたのに、関東系の明暗教会が明暗流を宣言したので、混同されては一大事と、「明暗真法流」と称することにしたとされている。
渡辺鶴山が、和歌山県新宮に帰り尺八指南所に掲げていた看板には「明暗真法道場」となっている。
後に源雲界は「明暗真法道場 天保甲午秋日 真竜軒鶴山」と自分で勝手に書いた半切を残している。
勝浦正山が1934(昭和9)年79歳の時に、天保時代の古い譜を写して門人に与えた譜面には、「明暗真法流」と大書してある。
尾崎真龍や勝浦正山については、
小濱明人氏の連載「尺八の聖地」(邦楽ジャーナル)に詳しくありますので是非!↓
https://www.fujisan.co.jp/product/1281680287/b/2444190/
勝浦正山については、國見昌史氏のブログに詳しくありますので是非是非!↓
明暗寺のこと、特に現在について詳しくは、
小濱明人氏の連載「尺八の聖地」(邦楽ジャーナル)にありますのでこちらも是非↓
https://www.fujisan.co.jp/product/1281680287/b/2444190/
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さて、
なぜ、對山は、京都に出てわずが5年で、京都明暗教会のトップになれたのか。
よそ者に冷たいと言われるような土地柄である京都に名古屋の人が突然行って、なれるものだろうか?
中塚竹禅が、對山について「年代の近い人である割合には詳しい事は判って居りません」と書いており、「芸人の宗教」という小冊子の中に書かれた、樋口對山居士のことを人物判断の役に立てばと全文載せている。著者山岸去水。
読みやすいように、漢字、句読点など多少変えています。
長いですが、竹禅の言うように、ここから樋口對山という人がどういう人か読み取ることができる。
對山は、色んなお寺と繋がりがあることがここで書かれています。明暗教会の訳教になったのもそのような信頼もあったのかも知れない。
そして、「まず第一に尺八というのは心を養って行くもの」と西洋の楽器と比較しています。国を富ます為ではなく自分自身の心を養う為と、全体主義に対する反骨精神のようなものも垣間見られる。
尺八観については「これは他の音楽を遣らずに手前味噌をいうのではありません、一通り実地を研究した上で申すのであります。」と断ったうえ、「尺八は宗教と離れることが出来ないと考えます、若し尺八にして宗教趣味を欠いたならば何の価値も意味も無からうと思う。そして宗教中、殊に仏教から其の趣味が出ています」と仏教と尺八には密接な関係があると言っている。
對山には、ピアノやオルガンとの合奏記録があり、当時の最新な音楽状況や流行にも十分な関心を持っていた事が分かり(神田可遊著「虚無僧と尺八筆記」)、外曲(三曲合奏)演奏も、「対山が入洛後、宗悦流の塚原玉堂、上田某、上村雪翁に教えを受けたということが、浦本浙潮、富森虚山の記述によって証明される」とある。(小菅大徹著「宗悦流上村雪翁の自筆本曲譜」)
最後に「各宗に対してかれこれ選び立てずに現世の生活を感謝いたすと同時に、未来の救済を信じつつ暮して居ります。」と、どんな宗教でも関係なくまずは感謝と祈りが大切であると締めくくっている。
對山自身の言葉により、彼はどの様な人であったかおおよそ理解ができる気がする。
さらに、当時、對山は周りの尺八奏者たちにどのように思われていたのか。
「勝浦正山師談」の「明暗自笑師に就て」という記事より、
『芸海』の記事は、「昭和12年4月13日 露月筆記文責記者」となっていて、津野田露月がインタビューしたものとのこと。『勝浦正山遺譜』に載っている。
このようなことを、勝浦正山は言っているんですね。去ってしまった自笑師に対する寂しさはありつつも、對山を明暗道心の復興に精進し成功した者とし、對山を他人扱いする必要は無いと断言し、大恩人とまで言っている。この文章は極めつけですね。
對山は、西園流の11曲に、琴古流さらに九州系、奥州系の曲を加えたものに、自己アレンジ曲、外曲(三曲合奏)も得意とするパーフェクトな尺八伝承者であった。それを勝浦正山は認めていたのでしょう。
浦本浙潮云く、
この文章からも読み取れるように、對山の「教養」が明暗教会のトップになったことを
裏付けているように思う。
さらには、
とあり、本曲と外曲の吹き分けを徹底していたことが伺われます。
何故、對山が明暗三十五世になれたのか?
對山の情報をかき集めて、ようやく理解できたのは、この人なら大丈夫という力量と知識と人柄、あと篤い信仰心もプラスされて、對山は適材適所な人物だったのだろうと想像します。
心配したのは名古屋弁。東京に来るよりも京都では馴染んで問題なかったのか。余計な心配だったかな。
最後に、
私は、樋口對山のことも、明暗真法流のことも知識ゼロで、取りあえず調べたものを並べて神田可遊師に校正して頂いた次第です。
とにかく参考資料も多数で、年代やら人間関係やら説明するのも超面倒であったと想像しますが、親切丁寧に回答下さった神田可遊師に大感謝です🙏
こちらに書いてある樋口對山については、神田可遊著「尺八評論」の「対山派尺八の成立過程」のほんの一部分です。
「対山派尺八の成立過程」が本になれば、ホンとに最高なのですが…。
今ままで「對山派」の曲を何食わぬ顔して吹いておりましたが...汗
ここでようやく、對山師のことを少しではありますが垣間知る事ができ、安堵しております。いやはや…。
「對山派ってなんですか?」と聞いてくださった愛好会の方にも大感謝!笑
実はまだ終わりじゃない。
次は對山派の伝承曲の確認です↓
見出し画像は、中塚竹禅著「雑音集」より。