虚無僧になった出石藩士 神谷転ゆかりの松見寺跡に行く。
『仙石騒動』を調べて其の六までシリーズが続きましたが、ようやく神谷転が虚無僧になり、看主となった松見寺にやってしました。
『仙石騒動』とはどういう騒動であったかはこちらから↓
まずは木更津駅から。
終点まで行ってみたい気持ちをぐっとこらえて横田駅で下車。
地図上で見てみると、久留里線終点の上総亀山駅といすみ鉄道の上総中野駅がつながる予定だったのでしょうか。
その森が一体どこか、電車の中から目をこらしておりましたが、確信持てず...。
線路を渡り北へ向かう。
見渡す限り田圃です。
おお、あれに見えるは吾妻神社かな。
途中の祠や石仏。
着きました。
この吾妻神社には、
ヤマトタケルの后、弟橘媛が祀られている。
因にヤマトタケルは、『日本書紀』では、日本武尊、『古事記』では主に倭建命と表記されるとのこと。
そのヤマトタケルが東征の際に走水の海(浦賀水道)を渡ろうとしたとき、海の神が祟って舟が進まなくなった。后が尊の身代わりになって海に身を投じたところ、舟は進むことができたという(『古事記』)。
その後、その遺骸が黒戸の浜に漂着し、遺骸を長生郡本納(千葉県東部・現在の千葉県茂原市本納町)の地に送ろうとしたが果たせず、首飾りを取ってこれを送り、遺骸をこの地に埋葬し、松を植えて墓標としたと伝えられている。
その松は臂(ひじ)のように曲がっていて、臂松と云う。寛文年間(1661-73)に枯れたとのこと。
この地は、弟橘媛の遺骸を収めるのに、御骸と称され、それが三畔になり、三黒に転じ今に至るという。
臂松古墳
その他の祠
松見寺説明板
この虚無僧は松戸市立博物館の虚無僧像ですね。
神谷転石碑
袖ケ浦市指定、有形文化財
https://www.city.sodegaura.lg.jp/uploaded/attachment/30408.pdf
【至善至直(しぜんしちょく)】いたって善良で正直
【飛廉】(中国の空想上の動物)
【縲絏】罪人として捕らわれること
【蜑】海人(あま)
こちらの石碑は、友鵞が仙石騒動の際、聖廟に祈願し、遂に安泰を得たので、丸山塚に感謝して彫ったものとされています。
碑の裏面には仙石の臣、渡邉僲駕の句が彫られている。
虚無僧寺と神社の関係について、神田可遊著「虚無僧寺と神社」(『尺八評論第3号』)によると、
神谷転が虚無僧になったのは1834年。
1834年4月 江戸麻布六軒町の有名な柔術家渋川仲五郎の紹介で一月寺に入り名前を友鵞とする。
1835年3月 神谷転こと虚無僧友鵞は、上総国千葉県三黒村(袖ケ浦市)松見寺看主とされた。
友鵞について詳しくはこちら↓
虚無僧の墓へ
椎の大木の元に墓碑。
友鵞本人のお墓は中目黒の天台宗のお寺、三等山永隆寺にあります。
東京三田大乗寺から、明治35年に寺号を改め中目黒に移った。
友鵞のお墓についてはこちら↓
こちらで「転菅垣」を献笛。
ここだけ時間が止まっているようです。
車も殆ど通らない。
私はこのまま、ここにある草や石にでもなりたいと強く思ったのでした…。
しかしながら、そんな夢想をしていても、時間は経つし腹は減る。
仕方ないので名残惜しみながら、ここを経ちます。
西側からもポツンと吾妻神社。
次に向かうは菩提寺の長徳寺。
昔はこの辺りを一括りで上総国でしたが、今は木更津市となっています。
途中、コブシが満開。
菩提寺であった長徳寺
山門脇の道標。
1703年とあります。
神谷転、この道標絶対見たよな。
感慨深い…。
お参りも済んだので一つ先の東清川駅に向かいます。
都会では、道路になったり宅地になったりすると、こうした道標や祠、お地蔵さんは移動させられてしまっていますが、この辺りは昔のままのような気がします。
何やら凄い馬頭観音さまがいると地図に載っていたので、見に行きます。
おお、馬に乗ってる!
ここでは地元の人達が車で集まって何やら話し合いしてました。
いいですね、
「明日、10時に馬頭観音ね。」
って待ち合わせるの。
羨ましい。
お昼にします。
いかにも、店主「とみさん」といった風の女性が注文した焼きうどんを持ってきてくれました。
絶対移動しないのはいいのですが、もうちょっとなんとか…。
無人駅です。
こちらおまけの写真。
珍しい白磁なんですね。
出石白磁ともいうそうです。1800年はじめ江戸時代中期に、出石藩において、大量の白磁の鉱脈が発見され、出石焼磁器が1801年(享和元年)の藩窯開設以降、本格的に生産されるようになったそうです。
あとは、出石蕎麦を食べに行ったらようやく完結です。