ムルナウ回顧録☆尺八話番外編
知らない電話番号から着信があった。
尺八の愛好会の宣伝チラシで電話番号を公開しているので、時々ではあるが問い合わせの電話があり、知らない電話番号でも出るようにしている。
「もしもし宮坂です。」
男性の声。声には記憶は無いが宮坂という苗字の知人は一人いる。しかし彼の声とは全く違っていたので、
どちらの宮坂さんですか?
と、一応聞いてみた。
「え?どちらって宮坂だよ」
えっと…、その、どちらの?
「宮坂だよ、忘れたの?修司だよ」
一瞬で、どちらのと聞いたことを後悔した。やっぱり唯一の知人の彼だった。
彼には20代の頃、ドイツに語学留学に行った時にその学校で出会い、私が病気になった時に世話になり、その3年後フランスに語学留学に行った時にも彼はフランスに滞在していて、空港に着いた初日にパリのユースホステルに連れて行ってくれたという人だ。
彼はとても控えめな人で、電話に聞く声とは全然違っていた。何だか声が喉の奥から出ているといった感じだった。
「もう、会えないんだよ」
え?
「今入院していて、医者にもう先は無いって言われてるんだ。」
またか!と内心思った。
つい最近、岐阜の藤川流光師から同じような電話があったばかりじゃないか。
は?何でもっと早く連絡くれないの!?
「前電話したら、違う人が出たんだよ」
多分それはかなり昔の携帯電話の番号だったと思う。
よく今の電話番号を彼が知っていてくれたなと思った。
彼とは7、8年前に会った以来だった。
病院の都合で見舞いにも行けないらしい。
共通の知り合いもないし、彼の両親はもう亡くなっているだろうから、もう連絡の取りようがない。
どうりで声もいつもと違うわけだ。彼はきっと仰向けになりながら電話で話しているんだろう。
話をするのが辛そうなのがこちらにも伝わる息使いだった。
こちらから何を話せばよいか分からないし電話の切りようもない。
彼は無口な性質だった。
電話があった事がそもそも意外で初めてだったかも知れない。
こんな時、一体何を話せばいいんだ。
私がドイツで罹った病気というのは帯状疱疹だった。その頃はそんな病気があることすら知らなかった。彼は私の体調不良を見てすぐ医者に電話をしてアポをとってくれた。
最近、コロナが流行ってから帯状疱疹の人が増えたと聞いて、時々その事を思い出していた。
最近、帯状発疹のことニュースで聞くから、あの時シュージさんが電話してくれたよなって思い出すんだよね。
「ああ、うん…」
覚えているなら良かった。
ドイツの病院は日本の病院とはまた全然違う個人の家の書斎のような医師の部屋に通され、明日から1週間自宅養生を言い渡された時はびっくりした。帯状発疹のことは全く知らなかったので、
明日から散歩に行けないの?!
なんて医者に言ったら、
私だって何処にも行けないんだよ。
と疲れた顔をしてその医者は答えた。
その時は(知らんがな!)と思ったけど。
私はドイツの森に魅了され学校が終わると、朝食からおやつ用にとっておいた小さなリンゴとパンをポケットに押し込んで毎日散歩に出かけていたのだ。やたらと散歩コースが充実していて、ヨーロッパのアルプスが眺められ、牛や羊が草を喰んでいたり、小さな教会がポツンとあったり、新緑の頃には最高の散歩道だった。ベンチもあちこちにあったので、寝っ転がってボーっとしていた。何を考えていたのかは全く記憶にない。友人にはその病気は散歩のし過ぎだと言われた。
電話口で修司に、
絶対また連絡してよね!
と言ったら、
「うん。」
と彼は言った。
それから連絡は無い。
語学学校を2ヶ月で終え、一ヶ月ドイツ国内をぶらぶらした。
そしてドイツを発ち日本に帰国する時に、彼ともう一人、学校で仲良くなった友だちが空港まで見送りに来てくれた。
彼らとは学校から別れて一ヶ月も経っていたし、詳しくは話していなかったつもりだったのでサプライズだった。
その時、修司はフランツ・マルクの絵をプレゼントしてくれた。
その語学学校は南ドイツのムルナウという小さな街にあった。
そこはカンディンスキーとミュンターが移住したという田舎町だ。
私はそこで、フランツ・マルクの絵と出会う事になる。
フランツ・マルクはカンディンスキーと共に芸術年間誌『青騎士 Der Blaue Reiter』を刊行する。
私は絵を描くことを仕事としていたものの、ずっと好きな画家はいなかったので、フランツ・マルクの絵は、その時の私にとって衝撃だった。鮮やかな色彩といきいきした動物たち。ちょうど冬から春にかけて滞在したムルナウの自然と相まって私の目の前に強烈な印象を与えた。
学校にいる頃には、ミュンヘンの美術館にフランツ・マルクの絵を観に何度も通った。ドイツの美術館は日曜日は無料だったし、電車賃も週末割安切符(wochenende karte)というものがあった。ドイツはなんていい国なんだとしみじみ思った。
フランツ・マルク美術館はムルナウからバスで行ける隣街にあった。
そのバスに一人で乗っていたところ、たまたま修司が道を歩いていて、バスの中から彼に手を振ったことを覚えている。私はとても嬉しそうだったに違いない。
ムルナウは小さな街だった。
修司から貰ったフランツ・マルクの絵を、今も飾っているよと彼に言えば良かった。
思い返すと話すことはたくさん出てくる。
10年前に、小金井市に引っ越してきてから、私の狭い作業場にようやくこの絵を飾ることができたのだ。
周囲に黄色い黴が目立つようになったので、最近オレンジ色の厚紙で囲ってみる。なかなかいい感じだ。
その絵が、修司から電話があった一ヶ月後くらいに落っこちていた。
本当にこういうことがあるのか。
嫌な予感どころか…である。
でも電話をする勇気はない。
SMSは送り続けているけど返事はない。
彼は、ドイツから帰国後、フランスに行き、その後アメリカに渡り働いていたが、ビザの申請で何かの手違いで強制送還になってしまい、仕方なく実家のある長野県に滞在することにしたという人だ。
日本語は苦手と言っていた。
私が岐阜にいる時、一度個展に来てくれたし、確か名古屋でも会った事があるような気がする。
私が東京に来てから高山で個展をした時に案内を出したら、松本から車で来てくれた。それが7、8年前だ。
仕事についたものの忙しいこと、社員になったこと、母親の体調が心配だということなどを聞いた。風来坊も日本に落ち着いたのかなと、その時は思った。
そのドイツ語学留学の三年後に行った、フランスとルーマニアの旅日記のようなものを随分前に書き、それを手製の本にしたものがある。noteで公開しようかなと思っていた矢先に、ウクライナ戦争が起きた。
何となくやる気がしなくなってしまった。
その時、ルーマニアで見た黒海はウクライナやロシアと繋がっていると思うと、思い出などどうでも良くなった。
ただ、修司からの連絡がまたやる気を起こさせた。
こんな旅日記など誰の役にも立たないし、20年以上も前の事で新しい情報にもならないが、その時出逢った人々への敬意というか何といえば良いのか分からないけど、自分に影響を与えてくれた事にたいする感謝の気持ちもあるし、ただ単に忘れたくないという事なのかも知れない。
その手記『じゃがいもと黒海とフランス』に登場するオーストリア、ウィーンで出会ったバングラディッシュ人は、地下鉄で修司も一緒に会っている。
ウィーンは修司が行こうと誘ってくれた。もっとも二人とも一人行動を好んだので、ただ一緒に行っただけで、夜にユースホステルで今日はどこに行ったのかを報告し合うという旅だった。
そういうのがお互い気楽だったのかも知れない。
ユースホステルの庭の見晴らしのいい高台の草原で、夕方修司と何か話したというおぼろげなことを思い出す。
あと、修司にウィーンの名物、ウィンナーシュニッツェルを食べに行こうと誘われたけど、私は肉に興味が無かったので断ったことも思い出した。別にベジタリアンというわけではないので、行っておけば良かった…。
こうして思い出だけが残っていくのか....
誰も聞いてもいないのに自分のことをこうして誰彼無しにnoteでべらべらと話している私とは違い、彼はどんな事を考え、どんな生活をしていたのだろうか。
あの世で会ったらもっと思い出話をしたいものだ。
尺八の「し」の字もない【尺八話番外編】をnoteしたいと思っております。
『じゃがいもと黒海とフランス』
ただの旅行記ですがお時間ある時にでも…。
修司に感謝の気持ちを込めて。