夏の生き物の観察・考察 −セミ−

先に書いておくが、これはちゃんとした観察と考察ではなく、片桐和也の独断と偏見である。俺は学術的に生き物を語れる知識もないし、そんなちゃんとした人間ではない。これを夏休みの自由研究にでもしようものなら、職員室に呼ばれてカウンセリングをすすめられるだろう。

セミの声は夏の風物詩である。
アブラゼミはうるさいが、夏が真っ只中感を演出するのに一役買っている。ただそれは人間が勝手にそう思ってるだけで、アブラゼミサイドはラブホテルの前で、ヤらせてくれ、ヤらせてくれ、マジで優しくするからさあ、と言っているのようなものである。アブラゼミによっては、マジで何もしないから、マジで何もしないから、ちょっと二人きりになって話せる所で休もう、ね、ね、と言っているやつもいる。古今東西、ラブホテル前の土下座で上手いこと行ったって話はきかないんだから、もう少し雰囲気作りってもんを頑張れや、と毎年思う。まあ、それに関しては、下に書くが仕方のないことではある。

ツクツクボウシはなんだかもう、自分の名前を叫んでいる。やつらはツクツクボウシという名前だが、俺としては正式名称は、ツクツクボウシ・ツクツクボウシ・ツクツク・ウィーユー・ウィーユー・ウィーユーだと思っている。やつらはツクツクボウシだけでは飽き足らず、私達は貴方、私達は貴方、私達は貴方、というWe youのパートに入るのである。このように、鳴き声を名前に当てはめるなら、ツクツクボウシ・ツクツクボウシ・ツクツク・ウィーユー・ウィーユー・ウィーユーなのである。

ヒグラシのやつは完全に自分に酔っている。夕暮れ時や明け方に物悲しい雰囲気を出して、カナカナカナカナと女々しく囁き続けるのである。ヒグラシのメスは全員カナっていう名前なのではないかと思うほど、どいつもこいつもカナカナカナカナ言っている。たまにはマナとか呼んでるやつがいてもいいと思うのだが、やつらは皆一様にカナしか求めないのである。やつらがカナカナ呼び続けることは勝手なのだが、こっちはそれのせいで毎年毎年悲しい気持ちになるのだ。あれは夏の終わりの雰囲気を漂わせ、俺達を感傷的にさせる。よくよく考えてみると、もう学生じゃないので、夏の終わりも、将来の夢も、大きな希望も、関係ない。夏が終わろうがなんだろうがマジでどうでもいいのだが、それでも感傷的になってしまう。子供の頃より擦り込まれた、カナを呼ぶ声イコール夏の終わりのハーモニーという認識によって、俺達は切なくなる。無条件で夏の終わりは切ないもの、楽しい時間の終わり、と感じてしまうのである。カナカナカナカナが、夕闇やうろこ雲なんかと組み合わさると、相乗効果で胸が苦しくなる。むしろこれから涼しくなって、幾分過ごしやすい気候になるにも関わらずである。

セミは地上で七日しか生きられないとは言うが、実はしれっと八日、九日、十日とのらりくらりやり過ごすやつもいるらしい。そして地中に約七年間、長いもので数十年いるという。これを引き合いに出して、セミは地中に長くいるから可哀想じゃない、とか鬼の首を取ったように言うやつがいるが、そいつは無知である。セミはたしかにやかましく、バカの一つ覚えのように大声でメスに懇願することしか脳がないが、仕方ないのである。むしろ七年間地中にいることが可哀想なのだ。それは人間に置き換えて考えてみるとわかりやすい。二十歳まで一人で部屋の中にいて、ある夏に突然、ハイ!これから皆さんには子作りをしてもらいます!、となるのである。期間をたずねると、まあ最長一ヶ月くらいだけど、一週間くらいから死ぬやつは死ぬから覚悟はしておいてね、とこんな調子である。その上、自分は童貞、狙いは処女、かなりの悪条件である。刻一刻と寿命は迫っていく。そりゃ焦る。セミはそんな無茶ブリをされているのである。同じ状況なら、俺も最後の方は往来で、超優しくします、電気も消します(常夜灯あり)、とか書かれたプラカードを持って手当たりしだい声かけるくらいのことはやるだろう。
明日死ぬかもしれない、もう今日あたりやべえかもしれない、と思うと、そりゃ童貞はテンパって大声で懇願するしかない。童貞が目を血走らせて懇願するとどうなるか、処女はドン引きするのである。そのへんの、どうにもならない男の性欲に対して処女のほとんどは理解がない。
そういう場合、最初の所はあくまで下心ない感じで、昼飯なんかに連れてく、みたいなことがあいつらにはできないのである。昼飯食ってる間に死ぬかもしれないからだ。
ただ、セミの鳴き声にも多分俺達人間にはわからない種類があって、ヤらせてくれ!ヤらせてくれ!、と言っているやつだけではない。七年間地中で孤独に過ごしたというスタートラインは同じでも、生来要領のいいやつってのはいる。そんなセミは、あいつらヤることしか頭にない感じで嫌だよなあ、ところであっちに美味い樹液を吸わせる木があるんだけど二人で行こうよ、と上手く口説くのである。回りが、ヤらせてくれ!、と哀れな懇願しているこじらせ野郎共なのに対し、余裕のあるそのオスにメスは惹かれる。樹液くらいなら…、とホイホイ付いていき、気づいたら流れるように木陰で抱かれているのである。
そうしてだんだんと口の上手いやつから連れ合いを見つけていく。そうなるとイケてない童貞五日目ぐらいのオスはしだいに焦り始め、さらに血眼になって懇願、哀願をするという始末、悪循環だ。そりゃセミの声も岩にしみ入るわ、という話である。俺はそんなやつらに恋愛ハウツー本でも買い与えてやりたいが、ハウツーだけが全てではないのでこればかりはどうしようもない。

セミの鳴き声にも種類があると書いたが、そうなると懇願する童貞と生来の口の上手さを持ったやつの二種類なのかという疑問が生ずる。結論からいって俺は違うと思う。
俺たち人間がセミの存在を認識する場面といえば、実際見た時か、鳴き声がきこえてくる時だろう。そしてだいたいが鳴き声がきこえてくる時だ。ただ、鳴き声がきこえなくてもメスは確かに存在する。それと同じで、鳴かないオスも存在するのではないだろうか。鳴かないから俺達は認識できないのであって、そういうやつらも確かにいるはずだ。
そいつはなぜ鳴かないのか、いろいろ理由はあるだろうが、その一つはダセえからである。土の中で孤独に過ごすうちに、自意識だけ肥大し、根拠のないニヒリズムのようなものをこさえて成虫になってしまったのだ。なんか必死に鳴いてるのとか、口説いてるのとか、ダサッ、といったような感じで、頑張ってるやつらを見下しているのである。そいつには、まわりのセミ皆がバカに見えているのだ。主義主張というのは個人の自由であり、ニヒリズム自体をどうこう言うつもりはないが、あれを貫き通すのはなかなか難しい。というのも、だいたいのやつはニヒリズムという名の逃避だからである。早い話、傷つくのが怖くて、挑戦しなければ失敗もないという
寸法なのだ。それをニヒリズムという主義で装飾して体のいい言い訳をしているに過ぎない。本気で考え、心の底からそう信じ、ニヒリズムを貫き通せば立派であるが、たいてい今際の時に後悔する。俺はこの世界で何をなしえたのか、本当はめっちゃメスに興味とかあったんだわ、本当は自転車二人乗りとか、肩っぽずつイヤホンで音楽聴くとかやりたかったんだわ、と。
道端で死んでると思ったら、急に騒ぎ出して俺達をビックリさせるセミ、あの正体は多分、そういったセミの末路である。あれは、みんなバカだと思ってたけど、本当は俺が一番バカでした!、と騒いでいるのだ。

その他に、オスだけでつるんでるものもいるだろう。こいつらもこいつらとて勇気がないのである。必死に鳴いてるセミを軽く小馬鹿にしながら、それでもやっぱりメスには興味はある。いい感じのメスが近くに来ると、おい、お前声かけろよ、だとか、大声で鳴いてみ、だとか仲間内でヒソヒソやっているのだ。ただ、おい、声かけろよ、とかやってるやつらがマジで声をかけたためしはない。誰一人として友人の前でメスを口説く度胸など持ち合わせてはいないのだ。そうしてそのオス連中は、オスだけでつるんでた方が楽しいな、だとか、逆にメスいない方がいいよな、だとか言い始めるのである。逆にメスいない方がいい、とか言ってるけどメスなんていたためしがないのに。
そんな悲しきオス達であるが、なんだかんだ四日目くらいから焦りは出てくる。一匹、また一匹とメスを見つけていく。スマン嫁から連絡きたからそろそろ帰るわ、なんて言うやつも出てくる。だんだんと皆が付き合いが悪くなる。素直に焦って頑張れればいいのだが、ここで変な方向に考えをシフトチェンジしてしまうやつがいる。あいつは結局決められたレールの上を行った、みたいにメスを見つけた仲間をバカにしたり、そもそもメスサイドに問題ある、みたいにトンデモ責任転嫁をする。そうやって自意識を守りながら、なんだかんだずっと、どっかにエロいメスとかいねえかなあ、などとどこまでも自分に都合のいい妄想に耽って、気づいたら寿命である。例によって道端に転がり、ええ!?独身俺だけえ!?、と叫ぶのだ。当然俺達はビックリする。

考えれば考えるほど、セミとは愛すべきアホであり、上に書いたようなことを踏まえてよくよく考えてみると、やかましいだけのセミの鳴き声もなかなか趣きがある。限りある生と、迫りくる死と、種の繁栄と、童貞の叫びと…、なんだかんだセミは儚く切ない。そして人間にも通ずるところがあるのではないだろうか。

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