嘘が嘘だとバレない方法

この世の中は嘘で溢れている。俺たちは「嘘つきは泥棒のはじまり」と子供の頃から教育され、自分が子供を教育する立場になると同じことを教える。しかし大人は知っている、嘘は必要だと。人生の過程で、いついかなる時も真実が最善とは限らないと思い知らされるからだ。学生時代、社会に出てから、大多数の人間は嘘をつかなければならない場面に遭遇する。「なんてスッパイんだ、オトナのパラダイス」と思うかもしれないが、青くさいやつがおいてけぼりくらうのだ。今回の記事では「片桐和也的嘘のつき通し方」を説明しよう。

まず嘘をつく場面を考えてみよう。優しい嘘、なんて言葉があるが、だいたい人が嘘をつく場合ってのは自己保身だ。浮気がバレないためとか、怒られたくないからとか、そんなもんだ。自己保身の嘘というのはバレたら自身の立場が危うくなる上に、その後の信用問題にも関わってくる。つまり自己保身の嘘をつくにあたっては絶対にバレてはいけない。
片桐和也が思うに、嘘がバレるのには理由がある。嘘がバレるやつってのはテキトーに嘘をつきすぎてるのだ。問い詰められた時に出たとっさの嘘はテキトーになりがちだ。そしてテキトーな嘘をさらにテキトーな嘘で塗り固め、破綻する。策士策に溺れる、という言葉があるように、嘘つき嘘に溺れるのだ。嘘を弄しすぎて自分自身さえわけがわからなくなってくる。人間というのは、その場しのぎの嘘を事細かに覚えていられるほど記憶力が優れていない。本来記憶というのは経験が伴って頭に焼き付いている。嘘の場合は、その場の空気も、においも、温度も、音も、全てが存在しない話をしている。頭の中に絵が浮かんでいないのに、言葉だけ先行するから破綻するのだ。その時は乗り切っても、その後に改めてきかれたら、嘘の内容は頭から消えてしまっている。意外とそうやって後々おかしなことになるパターンも多い。
前置きが長くなったが、嘘が嘘だとバレない方法は「ハイブリッドな嘘をつく」ことだ。これが一番、明日からすぐ実践できる嘘のつき方だ。どういうことか、何がハイブリッドかというと、嘘の中に真実を混ぜるのだ。嘘だけで建てた家ってのは脆い。なので基礎や骨組みは真実で補えばいい。
例えば、彼女がいるにもかかわらずコンパに行ってしまったとする。それを彼女に勘ぐられてると。そしてとっさに「男だけで飲んだ」と嘘をつく。その後は記憶の引き出しをあさり、男だけの飲み会の経験を材料に語るのだ。嘘がバレるやつってのは男だけの飲み会と言ったら、ゼロから男だけの飲み会を作り上げようとするからいけない。自らの経験に則して語れば、それは嘘ではあるが真実なのだ。その時の店がどこかとか、皆何時頃集まったとか、あいつとあいつは仕事終わりに遠くから来たから二軒目からの参加になったとか、事細かにきかれても全部答えられるだろう。注意が必要なのは調子に乗って全部話さないことだ。必要以上に饒舌になるのは避けよう。あくまできかれたら答えるという姿勢でいいのだ。ただ頭の中ではしっかり絵を思い浮かべていよう。これをしっかりやれば後日改めて問い詰められても安心だ。とっさに嘘の内容を記憶するのは難しいが、この嘘はハイブリッドだ。記憶は芋づる式だ。実際の記憶がきっかけとなり、嘘も想起され破綻を防ぐ。このハイブリッドな嘘は様々な場面で役に立つことだろう。

余談ではあるが、ここで「ライ麦」の話をしよう。栄養価も高く、ダイエットにも向いているライ麦だ。ライ麦パンの材料として、みんな知ってるライ麦だ。今でこそメジャーな穀物だが、もともとは雑草というのをご存知だろうか?その昔、小麦畑の雑草の中で、小麦に似た種類だけが除草を逃れ生き延びた。それが何回も続くうちに、より小麦に似た雑草のみが選別されて生き残り、ライ麦になったのだ。つまりライ麦は「俺は小麦だ!」と嘘をつくのがうまいやつのみが子孫を残せたということだ。英語で嘘つきや偽物のことを「Liar(ライアー)」という。そして嘘のことを「Lie(ライ)」という。偽物で、嘘つきの麦、ライアーの麦、Lie麦。それがライ麦の語源なのだ。
…と、これは嘘である。英語の綴りでライ麦はRye、LiarやLieとは結びつかないと英語のわかる人なら気づくだろう。しかし居酒屋なんかでこの話をすればほとんどの人間は騙され、感心する。なぜならこれはよくできた嘘でもなんでもなくて、語源のくだり以外、雑草がライ麦に進化した過程自体は真実だからだ。こんな感じの割合でちょいと嘘をひとつまみしてやれば人は簡単に騙せる。これはハイブリッドな嘘の嘘と真実の割合の例だと思ってもらいたい。嘘が嘘だとバレないためには、いっそのこと真実の中に本当につきとおしたい嘘を混ぜるくらいでいいだろう。

ライ麦の話なんて知らねえよ、とっさに記憶の引き出しなんて探れるかバーカ!という人もいるかもしれない。ただこればかりは頑張ってくれと言うしかない。普段から頭の中に事細かな絵を思い浮かべてしゃべる訓練だとか、今日の出来事を簡潔にしゃべってまとめてみるアウトプットの訓練をするしかない。トークにおいて、記憶の引き出しをガバガバにすることはかなり重要なのだ。これを極めれば全てが嘘でも完璧なものを作り上げることができる。片桐和也に妹はいないが、妹のことをたずねられればスラスラと答えられる。それは、きかれることがないような事柄まで事細かに設定が完了しているからに他ならない。恥ずかしいからあんまり言わないが、俺の妹の理子はエビチリが好きだ。浮気相手を妹だと偽るのは昭和の時代の悪手だが、もしものために架空の妹を作っている。そのことから考えるに、空想でそれっぽい設定を考える訓練もいいかもしれない。いっそのこと中二の頃に戻って、寝る前に世界を救う妄想するのも、ある種の訓練にはなるだろう。ただ、全てに言えるのは漠然としてちゃいけない。世界を救う妄想をするなら、主要キャラの裏設定までとにかく事細かにだ。ヒロインの好物はエビチリだとか、そこらへんまで事細かにだ。まあ、俺はたまたま苦にならずそれができる痛いやつなだけで、そこまで訓練して嘘つかなきゃいけない人生なんて絶対嫌だけど。

それともう一つ、とっさに出た嘘は嘘でも軽いものがある。調子乗って話を盛ってしまうアレが行き過ぎた程度の嘘だ。見栄というものもこの種類の嘘に含まれるだろう。日頃の会話を面白くしよう面白くしようと考えてるやつというのは、時に盛りと嘘の一線を越えてしまう。面白エピソードと虚言癖は、天才と狂人のように紙一重なのだ。
その場合、嘘を真実にするよう頑張るしかない。早い話、ギターが弾けると嘘をついたら、最寄のハードオフまで走り、ギターを買って練習するしかない。だがしかし、なんにせよ限度ものはある。「俺は井上陽水と友達だ」と嘘をついてしまったからといって、本当に井上陽水と友達になるのはキツい。こっちにその気はあっても井上陽水にその気はないからだ。沢木耕太郎の本の対談かなんかで、井上陽水は時々ふらっと空港に行くという話を読んだ気がするが、それを狙って空港に行っても勝機はないだろう。そもそもあの本はだいぶ前の本で、井上陽水がまだ空港にいるかどうかはわからない。そうなってくると井上陽水ほど見つけにくいものはないだろう。カバンの中も机の中も探したけれど見つからないのだ。その場合は素直に「俺は玉置浩二じゃないので井上陽水と繋がりなんてありません」と土下座して許しを乞おう。
ただ実現できる範囲のものもある。片桐和也は学生時代、女との会話の流れで「スピッツのアルバム持ってるから焼いてきてやるよ」と言ってしまったことがある。だが片桐和也はスピッツのアルバムなんて持っていなかった。それどころかチェリーとロビンソンと空も飛べるはずくらいしか知らなかった。翌日、スピッツのアルバムを持ってTSUTAYAのレジに並ぶ俺がいたのは言うまでもない。その虚しさったらなかった。好きな女の気を引きたいとかでもなかった。割とどうでもいい部類の女だった。なぜとっさにそんなことを言ってしまったのか理解に苦しむ。しかし、こういうことなのだ。嘘から出た真を作り上げるしかない。そうこうしてるうちに嘘から出た真を作り上げることの大変さを学び、自分の首を絞めるようなクソみたいな嘘はつかなくなる。人生とは学びなのだ。というか、井上陽水の件に限らず、一定のレベルを超えたら普通に白状した方がいい。ケースバイケースで誠心誠意謝ろう。

このように嘘が嘘だとバレないための方法を延々説明したが、結局大事なのは思い込みだ。もやは嘘ではなく真実だと思いこんで話せばいい。まず自分を騙すのだ。さすれば堂々たる言動に気圧され、多少強引でも相手はそれが嘘に思えなくなるだろう。嘘を真実と思い込んで真実として話す、その頭のネジのブッ飛びと、凄みが説得力を生む。

そろそろ結びの文に入ろうと思う。
子供の頃から俺たちは、嘘をつくなと教えられた。しかしどちらかというと、なるべくなら嘘をつかなくて済むように生きる方が正しいのだと片桐和也は思う。嘘なんてつかないにこしたことはない。絶対その方がいい。それでも車の助手席から長い髪の毛でも発見されたら仕方ない。言うしかない、妹の理子だと。

※この文章は片桐和也の独断と偏見です。嘘つきは泥棒のはじまりです。

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