英雄の魔剣 50
扉が閉められると、再び死のような静けさが訪れた。それに闇。星一つない、月も見えない夜空のごとくである。とうしたわけか空気は澄んでいた。薔薇の香りはせず、香の匂いだけが漂う。換気したばかりではないようだった。にも関わらず。
「お久しぶりです。伯母上」
アレクロスは丁重にあいさつをした。こんな時でも一応の礼節は守るのだ。
「何用で来やった」
ウルシュラは同じ問い掛けをまた口にした。変わらず無愛想で無関心な様子。その無関心はアレクロスに対してだ。
『自分に』何をしに来たか、に対してではない。伯母は自分自身については、決して無関心ではいられないはずだ。と、伯母の性質をよく知るアレクロスは考えていた。
「貴女にお礼をしたいと、そう思い、ここに参りました」
それは大いなる皮肉である。
「礼とは。久しく顔も見せなんだのに」
ウルシュラの声に喜色がある。それでも率直に嬉しいなどとは決して言わないのが伯母らしいところだ、とアレクロスは思う。
だが。
それも今日までだ。
「俺、いや私が幼少の頃、病弱であった母に代わり、伯母上が私の世話をしてくださいましたが」
ここでいったんアレクロスは言葉を切る。
「それを本当にありがたいと思ったことは一度としてないのです。ありがたいと思う『べきだ』とは思ってきました。いえ、思わされてきたと申し上げましょうか」
誰に思わされてきたか。それは言うまでもない。伯母にも言外の含みは分かるはずである。こうしたことには過敏な女だ。昔から。いや、アレクロスがこの世に生を受ける前から、だろう。そうした話しか聞かない。
アレクロスの言葉で、その場の空気が冷たくなった。伯母の怒りが伝わってくる。別に魔力のせいではない。人の怒りは伝わるものだ。激しい怒りは特に。
傍(かたわ)らで侍女がうろたえる気配がした。大丈夫だ、と一声掛けてアレクロスは一歩ずつ部屋の奥へ進む。たしかこの辺りに椅子があったはずだと手を伸ばす。上手く椅子の背に触れられた。許可なく椅子を引いて腰掛ける。用心しているために浅く。すぐに立ち上がれるように。
「伯母上が私に言われたこと、私は今でも覚えています」
その時、アレクロスの口元には微苦笑が浮かんでいたが、闇に目が慣れていてもこの微細な変化は分からないだろう。
得意の読心で俺の心が読めるか。
アレクロスは内心で問い掛ける。
相手が心を読んでいるのを逆手に取り、ウルシュラに激しい憤りをぶつけた。実際に感じているよりも、強い感情と言葉を投げつける。
人の心を読んでも優位に立てるとは限らない。それは一つにはこうした攻撃にも無防備になるからである。おのれの心を危険にさらしてしまうのだ。まさに両刃の剣である。
「うう。アレクロス、お前は何を」
ウルシュラは苦しげになった。
「私は何もしておりませよ」
伯母には自分が見えているであろうから、敵意のないことを示すしぐさをした。両手を広げて武器を手にしていないと。アレクロス自身には、まだ自分の様子がよく見えない。
早く、目が慣れてくれ。そう願った。
「伯母上、建国王コンラッドには一人だけ息子がいましたね。息子は父親に似ない臆病者であったが、やがてその気質を克服し、二代目として優れた英主となった、と。父親とは違うやり方の出来る君主として、安定してきていた我が国を賢く治めた」
アレクロスはここで一息入れた。伯母が心を読む時には、同時にこちらからも伯母の心が読めるようになる。
この代償を甘く見ている者の何と多いことか。
かつてのベナダンテイたちもそうであったし、今目の前にいる王侯の一員たる伯母もそうである。
アレクロスには今や伯母の気持ちが手に取るように分かった。ウルシュラは動揺していた。とても激しく。
「ウルシュラ伯母上。貴女はよくこの話をしてくださいましたね」
ここでアレクロスは、魔剣の柄をそっと握る。
「しかし貴女自身はなんの大した努力もせずに、のうのうとここでここで惰眠(だみん)を貪(むさぼ)る暮らしぶりだった。それで他人を引き合いに出してまで人を非難か。貴女にその資格があるだろうか。貴女には何の関わりも無い他人も同然の遠い先祖、決してよく知っているわけでも、心の底から敬意を捧げているわけでもないその名を挙げて、よくも自分より苦労してきた人間を責めることが出来たものだな」
では、当の本人が血のにじむ努力をしてきたなら、偉大な人間を心底から尊敬しているなら許されるのだろうか。
アレクロスの考えでは、結論から言えばそれでも許されないのであるが、事実は庶民が好む舞台劇の悪役よりもなお醜悪で、どうしようもないものなのだ、とも王子は思う。
「貴女は別段、コンラッド建国王の息子である君主エイドリスの理念に賛同していたわけでもない。実際のところ、あまりよく知らないのでしょう。それでも、気に入らない甥の言動や内心の想いを、殴り付けるための体のいい武器には出来たわけだ。エイドリスを持ち出したのは、何となく境遇が俺と似ているから。その程度の適当な気持ちだったでしょう」
しかしそれでは、あまりにもあまりである。庶民の王侯貴族への憧れを裏切らぬよう、伯母ウルシュラにはもう少しましな悪役になってもらわねば。
アレクロスの目は、怯え始めたウルシュラの姿を薄っすらと捉えた。彼は魔剣に手を掛けたまま、そっと椅子から立ち上がった。