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主人公への『共感要素』について

 家族のためとか愛する(恋愛感情)人のためでなく戦うのなら、共感されないと言われたが果たしてそうだろうか? について語る。

 結論から言えば「必ずしもそうとは言えない」である。

 その理由を以下に述べる。

 自分に大きな力がある時、自分に成し遂げたい事がある時、むしろ何もせずに傍観している方が難しいと言うか、ある種の自制心が必要になるのではないか?

 まだ充分体力もあり、出世できるであろうのに隠棲して世俗から離れる。中国でも日本でも、このような生き方が理想の一つとされた。

 理想であるからには、やはり出来なかった人のほうが多かったのだろう。

 力があれば、善きにであれ、悪しきにであれ、その力を振るいたいと思うのが自然であり、善きことに振るうから無欲のヒトであるとは、必ずしも言えないのではないか。

 FIREしても、またなんか働きたくなったとか、現代でも聞く話だ。

 この場合の『共感要素』とは、つまりある種の人間らしさ、超人でも聖人でもない要素を見せることだ。

 さて、家族のためでも恋人のためでもなく、力ある者が『自らが信じるもの、成し遂げたいと思うことのために』(これが重要である)力を振るうのは、人として自然であるとは言えないだろうか?

 正直、TwitterXでのあれこれを読みながら頭に浮かぶのは、『ブルーロック』の士道のモノローグ。 

「パス? 戦術? こうすりゃ勝てる? ああすりゃ勝てる? ダッセェんだよ お前ら」 

「サッカーってのはスポーツじゃなく "生命活動"だと何度言えば理解(わか)る?」

 とは言え、感覚的な事だけでは他人には分からないだろうから、説明するのである。

 話を元に戻すと、『復讐の女神ネフィアル』において、ジェナーシア共和国の腐敗した状況についてはきちんと描写も説明もした。 

 主人公アルトゥールが、いかなる力を持っているのかも書いた。 この上、愛する人とか家族とか余計ではないか? 

 愛する家族や盟友を書いた『ウィルトンズサーガ』に比べて、特に著しく共感性に劣るとは思えない。

 もちろん、絶対に愛する恋人や家族を書いてはいけないわけでもない。書くのが絶対に良いわけでもない。 

 ただ、それをやると主人公のイメージ、また物語全体のイメージも変わる。

  そこは人それぞれの好みだろうが、必ずしも良い方にだけ変わるわけではない。この場合は、単に変わるだけである。

 ということは必然的に「前のほうが良かった」と言われるリスクもあるのだ。そして、アドバイスをした側は、その結果に責任を取れない。

 
 ここまで読んでくださってありがとうございました。また次回もよろしくお願いします。

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片桐 秋
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