英雄の魔剣 54
闇にうごめく魔物がいた。彼はそのように生まれついたのである。人間に害をなす、故に人間から見れば悪である。だが選択の余地もなくそう生まれつき、後の矯正はなされず、なされたとしてもほぼ不可能であった。
古(いにしえ)の《法の国》在りし時代には、そのような存在を無理やりにでも矯正する技もあったのである。それは失われて久しい。それが慈悲であろうか? その者の生まれついての本質・本性を捻(ね)じ曲げたのに?
アレクロスにはその答えは見い出せなかった。《法の国》の時代なら、間違いなく矯正は正義であり慈悲であった。そうでなくば死があるのみだった。今を生きるアレクロスには、そこまで断言は出来ない。結局のところ、それは王家と第一公爵家の後ろ暗い歴史と同じなのではなかろうか。そう思えるのである。
《うごめく者》はあのアンフェールと異なり、初めから魔物として生まれたのである。《うごめく者》は今コンラッド王国の王都にいた。
使者として《山の種族》の住む小高い山々の地へ──峨峨(がが)たる山脈はこの大地に滅多にはない──赴(おもむ)こうとしているマルシェリア王女と、コンラッド王国の世継ぎの王子のすぐ側まで来ていた。物陰に隠れて。それは文字通りの意味である。影と一体となれたからである。
「それでは行ってまいりますわ」
マルシェリア王女は馬車の窓から、外に立つアレクロスとセシリオに微笑みかけた。同乗するのは女騎士ユスティーナである。騎士としての正装に身を固め、腰には帯剣していた。むろん、王女の許可あってのことだ。王女を警護するためではあるが、同時に王女に信頼されていなくては許されるわけはない。
「ユスティーナ、頼んだぞ」
「かしこまりました、王子殿下」
御者は馬に鞭を入れた。魔物はとっさに馬車の影に乗り移り、そのまま馬車の中に入り込んだ。馬車の中の影に。そしてそのままじっとしていた。
マルシェリア王女と女騎士ユスティーナの一行は、難なく小高い丘陵地帯にまでたどり着いた。
「懐かしい場所です。ワタクシはここを覚えています」
「そうでしたか、長い歴史があるのですね」
「人間の歴史とは異なる歴史が《山の種族》にはあるのです。ワタクシの王国よりも前から、この山々で暮らしてきた種族なのですから」
「王女殿下を《山の種族》は忘れてはいないだろうと、そうおっしゃいましたね」
「ええ、間違いなく」
マルシェリア王女は、今では黒髪に赤い目の人間の美女の姿をしていた。コンラッド王国を歩く時にはいつもこの姿である。マリース王国の時代とは異なり、高貴の身に魔物の血が入ることを民は好まぬと即座に見て取ったからであった。
丘陵地帯は清々しい。薄荷(はっか)の香りの風が吹いていた。秋も深いが緑は青々としている。ところどころには紅葉した木々も見える。木々には瑞々(みずみず)しい果実がたわわに実っていた。
「それでも道は狭くて急ね。ここから先は馬車は通れないでしょう」
「私が馬を調達して参ります」
ユスティーナは言った。どこかで馬を借りるか買うのであろう。そのための路銀は王子から下賜(かし)されていた。
と、その時である。不意に一行の眼前にその《山の種族》が現れた。背は高く、肩幅も胸周りも太く大きい。がっしりとしていて巨木を思わせる。
「これはこれはマリース王国の王女殿下ではありませんか。実にお久しゅうございます」
「よく分かったわね」
「姿がどうでも、そのお声には聞き覚えがございました故に」
丘陵地帯に着いたのは夕暮れであった。すでに今は夕闇迫り、暗さが辺りを満たし始めた。馬車に残っていた者の正体を、まだここにいる皆が知らない。
《はいよる者》はマルシェリア王女の影の中に潜んだ。誰も気が付かなかった。
「王女殿下、この方は」
ユスティーナがやや警戒しながら尋ねる。
「彼は《山の種族》の長。ふふ、驚くことはないわ。私たちと違って身分の差にあまり意味を見出さないのよ。だからこうして気軽に外を歩いているの」
「我々の間ではその通りです。王女殿下には、人間の作法に従い、特別な扱いをいたしましょう」
「ありがとう、長。早速あなたに頼みがあるのよ」
「分かりました、伺(うかが)いましょう。どうぞこちらへ」
長は王女と女騎士を連れて近くの巨石の前に立った。御者は馬車の見張りにとその場に残された。マルシェリア王女の影に潜む魔物には、まだ誰も気が付いてはいない。
長が何やら呪文を唱えると、岩はぱっくりと左右に割れて、奥に通路が見えた。通路は丘の地下に入っていくようである。光源が見当たらないのに、何故か通路は明るい。
「王女殿下、どうぞ」
「私もご一緒いたします」
ユスティーナが強めの調子で言った。長は彼女を観見て一言、
「どうぞ」
とだけ言った。
一行は中に入った。背後で岩はまた元に戻る。
それから夜中になる頃には。丘陵地帯の地下、《山の種族》が暮らす都は大惨事となっていた。
《はいよる者》は満足であった。辺り一面に《山の種族》の屍(しかばね)が転がっていた。《山の種族》からも赤い血が流れるのである。血は都の往来を染めていた。
マルシェリア王女は、《はいよる者》に捕らわれの身となっていた。
ユスティーナはようやく丘の地下から逃げ出した。王女を残して逃げたくはなかった。だが、身を挺(てい)して戦ったとて到底勝ち目はない。何とかして、王宮に助けを求めねば。
ユスティーナは残してきた御者に真実を告げた。そのまま人間の里で馬を買い、一目散に王都を目指して走り出した。
ユスティーナは気が付いていなかった。今は《はいよる者》が彼女の影にいることに。