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英雄の魔剣 43

 その女騎士はコバルトブルーの瞳をして、輝くばかりの銀髪を、動きの妨げにならぬように首の後ろあたりで束ねていた。
 彼女は森の中で暮らしていた。騎士身分の者としては変わった暮らしであった。

 前線を退いた老騎士が、森の中で庵(いおり)を編んで隠者として暮らすのは前例がある。それでも多くの者は、若き日の栄光から完全に身を退けることはなく、後進への助言やらをしつつ、俗世に身を留めるのが常であった。

 したがって、この女騎士のように、若い内から人との華やかなる関わりを避け、森に住まうのは珍しいことと言えた。

 この女騎士の名はユスティーナという。コンラッド王国の王立第一騎士団の副団長である。騎士たちの中でも特に声望高く、美貌と果敢さで知られていた。
 
 ユスティーナは今、森の中の清水湧く泉で水浴びをしていた。春ではあるが、水は冷たい。
 水から上がると、木綿の布で髪と身体を拭(ふ)いた。

 ユスティーナと共に、泉の水に身体を浸していた者がいた。ユスティーナに負けず劣らず美しい、泉の精であった。流れるように流麗な身体の線、長く波打つように背中に流れる青い髪。肌もつややかで青く、瞳だけは水面にきらめく陽光のように、輝く銀色であった。

「あなた達の王様の息子が呼んでいるんですってね」
 澄み切った声だった。春のきざしに、雪の玉水が水面に落ちる音のように。今は春も終わり頃であるが、泉の精の声は早春の空気のように清澄である。

「世継ぎの王子殿下直々のご下命とあれば、私も応じないわけにはいかない」
 女騎士の返事を聞き、泉の精は深く息を付いた。
「ねえ、いっそのこと騎士団なんて辞めてしまえばいいわ。私達と一緒にこの森の中でずっと暮らしましょう」

 私達。泉の精には友がいた。森の精と小川の精である。自然の精たちは、自らが生まれ出て、力を得られる場所から離れられない。泉の精が女騎士ユスティーナのもう一つの生活の場である、人間の街へ出ていくのは不可能であった。

「騎士団を辞める、か。いや、そんなわけにはいかないんだ」
「どうして。あなたは富にも名声にも関心はなく、大貴族や王族に気に入られるのも望んではいないのに。何があなたを人間の暮らしに引き止めているの」

 女騎士ユスティーナは、じっとコバルトブルーの瞳で泉の精を見つめた。
「私は、どうしてもやらなければならないことがある」
「だめ、行ってはだめよ。どうか、ここにいてちょうだい」
「これまでだって、騎士団での生活はあっただろう」
「だけど、人間の王様がいる場所を離れて、そんなに遠くまで行かされるなんて初めてでしょう。帰って来られないかもしれないわ」
「そんなことはない。安全な街道沿いで、王家の守りもある」

「王家の守り。特別な武器と護符を貸してくれると言うのね。でも万が一」
「大丈夫だ。私は帰ってくる。必ず、必ず帰ってくる。私を信じてくれ。それに」
 泉の精は、青い両腕をそっと水面から出して、ユスティーナの頬に触れた。
「それに、なに」
「この《神秘の森》にも魔物がやってくるかも知れない。そうなる前に我々人間がなんとかしたい」
「魔物が、私たち自然の精霊を襲った試しはないわ」
「そうとも言えないだろう。記録にはそうした例も稀にだが、あると」
「力を与える自然の場所から、無理に離れなければいいのよ。あなたもこの森にいれば守られる。あなたは人間だけれど森を理解し愛する人だから」

 ユスティーナは頭を左右に振った。
「これからは、私が向かう《星夜の森》でさえ安全ではないと考えている」
「そんな馬鹿なこと」
「無理もない。私の予測を信じる者は少ないからな、人間にも」
「あなたが戦わなくても、他の人がやってくれるわ」

「なあ、泉の精。私は人間たちを、私の力の及ぶ限り守りたいだけではない。この森も、精霊たちをも守りたいと願っている。これはこの森のため、精霊たちのためでもある」
 泉の精は、まなざしを女騎士から離せない。その目はうるんでいた。


「だから行かせてくれ。これは人間だけのためではない。あなた達のためでもあるのだから」
 泉の精は涙をこぼした。それはきらきらと輝き、銀と青い宝石に変わった。これを知られれば、欲の深い人間には、きっと酷い目に遭わされることだろう。ユスティーナには、そんな心配をしなくていいのだ。泉の精は、そう思ってきた。

「どうしても行ってしまうの」
「どうしても行かなければならない」
 泉の精は、しばらく泣き続けた。やがてこぼれた銀と宝石のかけらを差し出して、
「どうかこれを持っていって。人間の世界ではとても役に立つのでしょう」
と、言った。
「ありがとう。決して無駄にはしない」

 女騎士はそれを革の袋の中に収めると、泉の精の両の頬に軽くキスをした。
「では、行ってくる」
 ユスティーナは泉の精に背を向け、森を出るまでは振り返らなかった。

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片桐 秋
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