緊張感と幻想文学

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ある種のフィクションには、緊張感が欠かせないという話をしてきた。推理小説や、漫画の話がメインだったが、緊張感の必要性は、はっきりとエンタメだと分かるものだけに限らない。

最近、村上春樹氏の『レキシントンの幽霊』を再読したのだが、明るさと軽やかさの中にも、底流に悲しみが流れる物語である。

そして程よい緊張感がある。

知り合ったアメリカ人に留守番を頼まれ、彼の家に泊めてもらうことになった主人公が、その日の晩、騒がしくパーティーをする幽霊たちに遭遇する話だ。

最後まで幽霊に関する謎は明かされない。明かされるのは別のエピソードである。そのエピソードと幽霊の間には、きっと何らかの関係があるのだろうが、明確には書かれない。

謎のまま終わる。謎のまま終わる故に、程よい緊張感が残る。

すっきりと謎が解ければ、解放感がありリラックスする。

謎が解けなければ、謎への不可解さがあるため、一定の緊張感が持続する。

そうだな、エンタメ系とは異なり、あまり緊張感の激しい上げ下げはない、と思う。全体を通して、一定の程よい緊張感が継続して、それは読後もそのままなのである。

それはもちろん、わざとそのように書かれているのですね。

このブログで何度か紹介してきたホフマンの『砂男』も、そんな作風である。

謎を残したまま、少なくとも明示的には解き明かさないままに終わる。

ちなみにこれも以前扱った『カーミラ』はまた違っていて、こちらは作中の謎は、全て解き明かされる。

読後感には、解放感とリラックスがある。

私は、幻想文学と言えば、簡単に言うと『解き明かされない謎があって、読後にも一定の緊張感が残るもの』だと思っていた。

しかし『カーミラ』も幻想文学の一種なのかな?

だとすると違うのかも知れない。

さて。それでは今回はここまで。

読んでくださってありがとうございました。また次回の記事もよろしくお願いします。

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