アッシェル・ホーンの冒険・第八話【人の心の闇に勝る、『魔王』は存在しない】
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ヒルマンが何も言わないのを見て、アッシェルは自分が答えようと思った。
「知恵の書を。どうかドラゴンよ、知恵の書を私たちにください」
「ほう、知恵の書を選ぶか」
ドラゴンには意外だったようだ。顔には変化がないようだが、口ぶりには面白がっているような響きがある。
「はい、それが一番私たちの役に立つでしょう」
その理由をアッシェルは口にしない。ドラゴンも聞きはしなかった。
ドラゴンは空中に一冊の本を浮かべてみせた。それはどこからともなく出現した。
「これが知恵の書だ」
知恵の書はきらきらと輝いていた。青い星のような輝きだった。皮装丁の紺色の本。そこに青い光も宿っているのだ。
「美しい」
思わずつぶやいた。
「実に素晴らしい。我が村に置いておこう。他には渡さぬ」
ヒルマンは言った。熱に浮かされたような様子だ。
「待ってください、私の村にも写本が必要ですよ」
ヒルマンは返事をしない。何かがおかしいとアッシェルは感じ取った。
「この本は、まさか」
ドラゴンは、クククと笑い声を立てた。いや、それは笑い声に聞こえた。人間の笑い声とは全く違っていたから、最初はただ、ボウ、ボウと、息を鳴らしているとしか思えなかった。
「その書物には何の力もない。いや、大いなる知恵が書かれた本であるのは間違いない。だがお前が思うような奇妙な魔力はない。あるとしたら、人の心の中にこそ、魔は存在するのではないか」
「ヒルマンさん、しっかりしてください!」
アッシェルは叫んだ。これはドラゴンの罠だったのか? 何のために?
「偉大な書。我々はそれを手に入れたのだぞ、アッシェル」
「ヒルマンさん、それをどうするつもりですか?」
「決まっている。これさえあれば〈法の国〉復活の第一歩を踏み出せる」
ヒルマンの全身がふるえていた。目は爛々と光り、じっと知恵の書を見つめている。明らかにおかしいとアッシェルは思った。
「ヒルマンさん?」
「さて、私の願いも叶えてもらおうか。魔術円を消すのだ。私は元の世界に帰還する」
「待ってくれ。この本は何かを破壊するためにも使えるのか?」
「さあ、貴様はどう思うのだ?」
魔術が如何なるものか、アッシェルもよく知っている。生活を便利にする魔術もあるが、多くは魔物退治や悪党と戦うための技術だ。
そうでなければ、農地を耕す、建物を造るなどの通常の人の技に、補助として用いられる。今日(こんにち)作物がたくさん捕れるようになったのも、魔術による補助、すなわち土壌改良と品種改善があった故だ。
「魔術は悪用できますよ。戦いのためのものであればなおさらに」
戦いのものでなくとも悪用できる。豊作のための魔術を反転させて、その土地を不作にすることもできる。
人間は如何なる技術も悪用する。あるいは、悪ではないにしても、戦いのために用いる。
「その通りであるな」
ドラゴンはまた笑った。冷ややかな笑いであると思えた。
「して、お前は何を悪用と思うのだ?」
「私利私欲のために他者を害することです」
「私利私欲のためでなければ何とする?」
アッシェルは再びヒルマンを見た。彼は知恵の書を開き、眺めていた。
バンッと音が弾け、火が爆(は)ぜる。
「まさか、これは」
「そうだ、知恵の書を使えば、誰でも高度な魔術を使える。訓練も習得もいらない。ただ、本に書かれているままに呪文を唱えればいいのだ」
「そんな……」
もしそんな物が世間に知られたら。きっと奪い合いになる。それだけではない。ヒルマンの考えには危険なものがあると前から思っていた。
アッシェルは村の広場にいた荒事師を思い出した。金目当てだとしても、悪い人間ではなさそうだった。冷静に考えて、ここにいるヒルマンが彼よりましと何故言い切れるのか?
そんな保証はないのに。
「さあ、どうするのだ、人間よ」
ドラゴンは厳(おごそ)かに告げた。
「どうもしませんよ。ヒルマンさん、どうかしっかりしてください。魔術の力に頼って〈法の国〉を復活させたって、誰も喜びはしないんですから」
分かっているはずですよ。そうも付け加える。
「分かってくれ、アッシェル。これは我々人間に必要なものだ。我々は再び世界の主(あるじ)となるのだ。もはや魔物どもに脅かされる暮らしは終わりだ!」
そう叫ぶと、ヒルマンは知恵の書を手に、ドラゴンのいる広間を飛び出した。上への階段を上がってゆく。
アッシェルは後を追った。ドラゴンを振り返り、彼の目を──彼、なのだろう、たぶん──見た。目は赤く燃えるようだった。だがドラゴンは何も言わない。
「ヒルマンさん、いけません!」
階段の下から叫ぶ。ヒルマンは振り向かないで、そのまま上っていった。
「魔術円を消すのだ」
ドラゴンの声が広間中に響き渡った。
続く