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【厳然たる事実に立ち向かえ】ウィルトンズサーガ2作目『深夜の慟哭』第6話
マガジンにまとめてあります。
御者をしてくれた男は出ていった。出ていくときに一言、
「それではごゆっくりお過ごしください。何かございましたら、そちらの卓上にあります呼び鈴を鳴らしてくださいませ」
と、告げて扉を閉めた。
後に残るのは、限りなく深い夜の静けさだけだ。室内には魔術による明かりが灯っていた。陽光よりはろうそくの明かりに似ている。薄闇と穏やかな明かりとが、この夜に溶け合っていた。
「おお、この掛け布団は中に羽毛が入っているのか! 軽くて温かいな。敷布団も、しっかりした羊毛が中に詰まっているんだな。それに彫刻の彫られた、こんな豪華な寝台に寝るのは生まれて初めてだ。布団の表地に使われているのは絹じゃないか? 真っ白な絹だ。なんて贅沢なんだ」
「用心棒に対するには、あまりに過ぎたおもてなしですね」
「何か気がかりがあるのか?」
「これは憶測です。明確な根拠はありません。いいですか?」
「かまわないさ、聞かせてくれ」
「デネブルの支配領域は三つの王国に及びました。それは案内してくれた男が言ったとおりです。デネブルが滅びて、この国には王がいません。近隣にも統治する王はいません。古王国、と呼ばれる国々はとうに滅ぼされたのてす。今いるのは、各々の領地を統治する貴族たちだけです。我らのご領主様も、そのお一人です」
「待ってくれ。これから戦乱になるっていうのか?」
「そうは言いません。ただ、小競り合い程度の争いは増えるでしょう。それに、他から攻め込まれないための兵力も必要です。こちらからは仕掛けない。けれど守るためのそれは必要なのです。きっとご領主様もそうお考えと思います」
「待ってくれ。魔物や不死者と戦うだけじゃないのか」
「残念ながら。けれど争いを回避する方法もあるとは思います。そのための外交です」
「うわあ、面倒くさそうだな」
「血が流れないようにするためには大切なことです」
「俺たちも外交とやらをするのか?」
「ご領主様がお望みなら、断るのは難しいでしょう。あなたも、同じ人間や、害意のない魔物や不死者と戦いたくはないはずです」
「そりゃそうだ。武力にのみ頼るのは愚か者のすることだしな。とはいえ、お貴族様同士のやり取りなんて、実に面倒くさそうだな」
「じきにあなたも、そのお貴族様になるのですからね」
「う、何だか妙な気分だな。俺が貴族……。ぴんと来ないな」
「さて、それでは最低限の礼儀作法は身に着けていただかねば」
アントニーは寝台の前にある長椅子から立ち上がった。長椅子は上等な木製で、中に詰め物をした布が張られている。その布には、見事な文様が織り込まれた絹織物が使われていた。文様は古王国時代の貴族に好まれた物だ。ウィルトンは、アントニーが暮らしていたあの大理石の部屋にあった掛布を覚えていた。
「これは古式ゆかしい文様です。古王国時代の布地がそのまま保存されている場合もありますが、これは新しく織られた物のようですね。おそらくは布地だけを急いで張り替えたのでしょう。私のために」
「いたせり尽くせりだが、その代価が恐ろしい気もしてきたな」
「そうですね。代価の第一歩は、まずは正しい言葉遣いからです」
「おお、アントニー様。どうかお手柔らかに。私は名もなき庶民に過ぎません。どうかご無礼があってもお許しを」
「なかなかよろしい。最初のうちはそのような言い方でもお許しいただけるでしょう。しかし、あなたは早いうちに、貴族としての物言いを身に着けなくてはなりませんよ」
「貴族としての?」
「そうです」
「なんて言えばいいんだ?」
「アントニー殿。どうか失礼があればお許し願いたい。私はこのような作法には慣れていないのです」
「すげえな。芝居小屋で見た貴族の言葉遣いみたいだ」
「おや、私は本物ですよ。あなたはそう思っているのではなかったですか?」
「もちろん、お前は本物だよ」
「あなたも本物になるのですよ」
「……いや、ちょっと待ってくれ。俺はまだ正式に叙任されていない」
「ですが、言葉遣いは早いうちに覚えてしまいましょう」
「今はまだ庶民なんだぞ」
「あなたはすでにただの庶民ではありませんよ」
「ああ、やれやれ。実感が湧かねえな」
「とにかく、言葉遣いを訓練します。今夜は寝かさないので、そのおつもりで」
◆
一晩が明けた。
「アントニー殿、かたじけない。不作法な田舎者の私のために、一晩お付き合いいただいて、誠(まこと)に感謝する」
「よろしい! 実に良くなりましたね。これならご領主様の前へ出てもきっと大丈夫でしょう」
ウィルトンは、表情を明るくした。
「そうか! よかったな。お前のお陰だぞ」
「しかし、礼儀作法において一番大切なのは相手を心から敬う気持ちです。そしてもちろん、程よい距離を相手との間に保つことです。あなたは、知らない人が、あなたの妹さんのオリリエと同じくらいに親しげに振る舞ってきたら、きっと不快に思うはずです。オリリエに、知らない人が親しげに近寄ってきても、やはり不快にも不審にも思うことでしょう。同じように、適度な距離を保つことが、礼儀作法の第一歩であり、それこそが相手を心から敬うことなのです」
「分かった。お前にしたように、最初から馴れ馴れしくはしないよ」
「あなたは馴れ馴れしくはありませんよ」
「そ、そうなのか」
「あなたには、死をも恐れぬ決意がありましたから。私にはそれが、初めから分かっていました」
ウィルトンは、卓を挟んでアントニーと向かい合わせに座っている布張りの椅子から立ち上がった。
「ありがとう、アントニー」
それから言い直す。
「アントニー殿、そのように言っていただけて、ありがたく思う。これからも、あなたが示してくれたその敬意に恥じない私でありたいものだ」
ウィルトンは寝台に向かい、よれよれの服装のままで、そこに横になった。
続く
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