アッシェル・ホーンの冒険・第九話【人の心の闇に勝る、『魔王』は存在しない】

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「願いは取消せないのですか?」

「知恵の書はすでにお前の仲間の手にある。私に取り戻せと言うなら、その男を殺すことになるが、それでもいいのか?」

「それは止めてください!」

「もし私が与えた財宝のせいであのようになったと思うのなら、それは心得違いだ。あの男は、最初からあんな人間だったのだ。お前が見ぬふりをしてきただけではないのか?」

 確かにそうだ。見て見ぬふりをしてきた。いつかは分かってくれると信じてきた。いや、信じようとしてきた。

 それでもアッシェルは言った。

「どうか助けてください。知恵の書がなければ、ああはならなかったはずです」

「それでもあの男の本質は変わらぬのだ」

「分かっています! でもどうか、助けてください」

「私の炎の息吹は上の階まで届く。あの男は死ぬ。知恵の書は焼けぬ。あの本には人の心を捕らえる魔力などはない。だが、長年守られてきた魔術の書ではあるのだから特別な力は付与されている。お前があの本を使うがいい。お前なら、賢明に使える。知識よりも賢明さが、時には必要となる。今がその時だ」

「嫌です、駄目です。ヒルマンさんを殺さないでください!」

 アッシェルは叫びながら床に膝をついた。ドラゴンに頭を下げて懇願する。

「なぜだ? 信仰を同じくする仲間であるからか?」

「それだけではありません。彼は私の恩人でもあります。以前に、助け合って魔物退治をしました。彼はネフィアル信徒や神官の中でも、〈女神の猟犬〉と呼ばれる存在です。だから今の世の中には受け入れられません。でも、このまま死んで欲しくもないのです」

「〈女神の猟犬〉か。知っている。悪を狩るためだけに、そのいわば『機能』を特化した存在であろう。人間らしい心を失っている故にこそ、悪を狩るには無類の強さを発揮する。だがそれは両刃の剣。〈法の国〉の時代にさえも、やり過ぎで処刑された猟犬は多い。まして今の世に、奴が生きる場所はあるのか?」

「ありますよ。だって、彼には家族がいるんですから! 彼はそんなに非人間的なだけの存在ではありません。私はそれを知っています」

「解(げ)せぬな」

「なぜですか。仲間を見捨てたくはありません。知恵の書はお返しします」

「本当に、それでいいのか」

「はい」

 アッシェルは立ち上がる。ドラゴンに再度背を向けて、階段を上がっていった。

 魔術円のある部屋に戻った。ヒルマンの姿は見えない。

「ヒルマンさん?」

 魔術円は半分が消えていた。

「だけどドラゴンはあのままだ」

 全部消さなければならないのか。このままドラゴンを帰還させてよいのだろうか。

 魔術円のある小部屋に通じる穴を見た。魔術円を消さずにここから出たら、ドラゴンの炎はこの部屋にまで届く。自分は死ぬ。

「ヒルマンさん?」

 再び呼び掛けてみる。答えはない。

 部屋を探す。どこにも隠れられる場所などないし、隠れる理由もない。呼び掛けたのは一応だった。ヒルマンは見つからない。

「仕方がない。魔術円を消そう」

 枝やツルを切るための小刀を取り出す。それを使って床の塗料を剥(は)がしていった。思ったより時間がかかる。ヒルマンが気になった。

 知恵の書自体には、人の心を捕らえる魔力などはない、か。確かにそうなのだろう。

 魔術円を消していると、男の声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だった。ヒルマンではない。

「おい、ネフィアル神官の兄さん、いるか?」

 この声は。アッシェルには聞き覚えがあった。

「村の広場にした荒事師か? 私に声を掛けてきた者だな」

「そうだよ、お兄さん。いや、アッシェル・ホーンどの」

 少しばかりおどけた口ぶりで男は返事をしてきた。

「ヒルマンさんを、いや、藍色の本を持った壮年の男性を見なかったか?」

「ああ、村でよく見るあのヒルマンって奴だろ? 知ってるよ。奴ならこの地下道の奥に走っていったぞ」

「奥に?」

 奥に入って何をするつもりなのか。

「入っていいか?」

 アッシェルは瞬時ためらった。信用して良いものだろうか?

 荒事師は返事を待たずに入ってきた。

「これはこれは。魔術円じゃねえか」

「下にドラゴンがいる」

「ドラゴンが? 本当かよ」

「嘘を言ってどうする。この魔術円を消してくれと言われた」

「こいつで召喚されたわけだな」

「そうだ」

「俺も手伝おう」

 荒事師は、腰に差した山刀を抜いた。アッシェルは一瞬身構えたが、男はアッシェルから離れた位置で、かがみこんで魔術円を削り取り始めた。シャリシャリと、床と刃がこすれる音が響く。

「なぜ来たんだ? 宝ならもう無い」

「二人だけじゃ危険だろ。しかも今はお兄さん一人だ」

 アッシェルは思わず手を止めた。男をじっと見る。

「助けに来てくれたのか?」

「少しばかり気になったんでな」

 ニヤリと笑う。

「ああ、そうだ。俺の名はマルバンだ」

 そう名乗ると、荒事師はそれきり黙っていた。

続く

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片桐 秋
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