英雄の魔剣 最終話 56
アレクロスは、第一公爵家の兄妹を連れて、共に早馬を飛ばして馬車よりも遥かに早く丘陵地帯にたどり着いた。サーベラ姫もこの時には、普段は見せぬ馬術の冴えを見せたのである。例によって男装して弓使いの姿をしている。凛々しい青年の姿にしか見えなくなっていたが、これは魔術の働きに寄るのではなかった。
「ここか。開いたままになっているな」
《山の種族》の長が開いて、マルシェリア王女とユスティーナを招き入れた場所に今、一行は立っていた。ユスティーナたちを乗せた馬車の御者から、アレクロスは御者が知る限りの全てを聞いた。
「血の匂いがします。中は酷い有様のようです」
サーベラ姫がアレクロスに言った。
「そうだな」
血の匂い、はかなり控えめな言い方で、本当には腐った死体の匂いで充満しているのである。その匂いが外にまで漂ってきている。
「これから中に入る。姫は大丈夫なのか」
「どこまでもお供いたします、王子殿下」
アレクロスはうなずいた。先に立って岩の扉の内側に進む。後から、サーベラ姫とセシリオが続いた。
中は暗かった。マルシェリア王女が迎え入れられた時の明るさはもうない。サーベラ姫は魔術による明かりを灯(とも)す。
奥に進んで、地下の都の中に入っていった。白大理石の柱が立ち並び、その中にそれぞれの住居が彫り込まれていた。それらの中からも死体の匂いがしている。
互いに争いなく平等に物を分け合う彼らには、人間が行うような商取引はない。だから店もない。広々とした交換所だけがある。交換所には、やはり白大理石で掘られた台が置かれていて、台の上には、色鮮やかで透明の石が並んでいた。
「その石が《山の種族》の食べ物なのです。種石(たねいし)から増えるのですよ」
サーベラ姫がそう教えてくれた。
その時。台の影から《はいよる者》が現れた。《山の種族》の影の形をしていた。
「たとえ影であろうとこの剣なら斬れる」
アレクロスは重々しく宣言した。刃(やいば)を抜き放ち、敵に掛かってゆく。
魔剣は影の魔物を捕捉した。影の魔物からは赤い地は流れない。代わりに、斬(き)られた部分だけが淡い灰色の薄闇と化してゆく。《はいよる者》は影を伝って別の台の影に退く。
「光、より強い光を」
サーベラ姫は閃光のような眩(まぶ)しい光を輝かせた。アレクロス自身、目がくらむ思いである。次の瞬間、セシリオが主君の目に守りの魔術を掛けてくれた。眩しさが和らぐ。
台の影は濃くくっきりとした姿を現した。それ以外の床は明るく、白い光に照らし出されている。闇は消え去る。影と影をつなぐ闇はなくなった。
「そこの台か」
アレクロスは歩み寄った。影ではなく、台に魔剣を振り下ろして叩き壊す。影もまた残骸(ざんがい)の影となり、間延びした薄平らな影となった。すかさずそこを魔剣で薙(な)ぎ払う。白大理石の台の濃い影から、《はいよる者》の身体が分離した。分離した身体はすでに、大半が薄闇の淡い灰色となっていた。
「サーベラ姫、よくやってくれた。セシリオ、魔術でとどめを刺せ」
セシリオは雷光を放つ。発動体である、先祖代々伝わる指輪から、稲妻と闇夜をもを照らす雷光が放たれたのだ。それは真っ直ぐに、影の如(ごと)き魔物を撃った。
魔物は滅びた。呆気(あっけ)ない最期であった。
内海は開かれた。そこに至るまでには長い年月があった。《山の種族》だけでなく、人の手もあって内海は大地の奥まで開かれたのだ。魔物の脅威は、ほぼ取り除かれた。コンラッド王国に限っては。
魔物に対して防御を割(さ)かずに済むようになったコンラッド王国は、隣国ブリランテ女王国を恐れる必要はなくなった。女王国は未だに、魔物への対策にも追われていた。
「到底、我が国を侵略することなど出来ぬであろう」
アレクロスは言った。妃のサーベラにである。サーベラ姫は正王妃となり、サーベラ妃と呼ばれていた。
サーベラ妃は、揺りかごに眠る我が子の寝顔を眺めながら王に言う。
「ブリランテ女王国の民には、まだ苦しい日々が続くのでありますね、陛下」
「ブリランテ女王国の民は、ブリランテ女王が守ってくれるさ。我々にとって大事なのは、我が国の民なのだよ」
「それはもちろんでございます、陛下。人間同士は、魔物以上に敵になり得ます。残念なことです」
「確かに残念ではある」
アレクロスは言った。サーベラ正王妃の第一子である王女の柔らかな頬に指を軽く当てた。王女は笑って、小さな手で父親である王の指を握った。
「だが、どうしようもないのだ」
そう言ってから、不意にアレクロスは話を変えた。
「マルシェリアはどうしているであろうか」
《はいよる者》を倒した折に前王国の王女を救い出し、その後は影に日向(ひなた)に助けになってもらったものだ。
結局、マルシェリアはアレクロスの妾妃(しょうひ)となるを潔しとせず、独り身を通した。アレクロスはマルシェリアの功績のために、女侯爵の地位を与えたのであった。
「お元気でお過ごしですよ」
「それならば良かったな」
その時、召使いが王に呼び掛けた。
「グレイトリア第二妃殿下が、国王陛下にお目通りをと、おっしゃっています」
「よい、ここに通せ」
「かしこまりました」
老いた女の召使いは、王の広々とした豪華な自室を出ていった。
「私は下がりましょう」
「いや、サーベラ、ここにいてくれ」
グレイトリア第二妃(だいにひ)が侍女二人にかしずかれて入ってきた。キアロ家の出身の妾妃は、美しい深緑の絹のドレスを着ている。
グレイトリア第二妃はすでに二人の男子を産んでいた。第二妃はしかし驕る様子は見せず、サーベラ妃にうやうやしく挨拶(あいさつ)をした。
「ようこそいらっしゃいました」
サーベラ妃は言った。
「正王妃殿下、ありがたく存じます」
「やはり私は下がりましょう」
サーベラ妃は王女を抱き上げた。
「いいえ、正王妃殿下。どうかお聞きください」
グレイトリア第二妃の様子に、サーベラ正王妃は足を止めた。
「何かあったのですか」
「お預かりしていた漆黒の剣と甲冑は、すでに力を失いましてございます」
「そうでしたか。でもよく保(も)ってくれました。あのような力は、いつまでもは続かぬものです」
サーベラ妃は優しく言った。
「そうだったのか」
アレクロスは短く答えた。それ以上は何も言わなかった。
「いずれこの身体(からだ)も精神も老いて、衰えてゆく。それは避けられない」
以前にはサーベラ妃にそう言ったものだった。それはマルシェリア女侯爵はおろか、グレイトリア妃にも見せぬアレクロスの弱みの顔である。こんな当たり前の事でも、言う相手は選ぶのだった。
──だが、そうなるまでは。
「俺が元気なうちは、この国は安泰だ。それだけは約束しよう」
グレイトリア妃は同意の印に頭を下げた。
窓から春の風が入り込んでいた。庭からの花の香りが漂(ただよ)う。
余りにも遠くまでは、その窓からも見通せないのであった。
終わり