見出し画像

英雄の魔剣 47

 地底湖で姿を消した《魔界の貴公子》を、アレクロスは片時も忘れてはいなかった。この漆黒の武具を身に着けてから、はじめて相対したのだ。それ以来、ずっと宿敵のことは頭にある。

 これまでは心に思うのはいつも大切な人々のことだった。王族に生まれた身にも気に食わぬ人間はいくらでもいる。そんなことに気を取られていては貴重な時間と精神の活力が無駄に失われるだけである。そう、躾(しつ)けられてきたゆえに、アレクロスは根深い憎しみに囚われた経験はなかった。これまでは。

 それでも今はアレクロスは自室にいて、静かなひとときを味わっていた。初めてこの英雄王の武具を身に着けた時から、まだいくらも時は経ってはいない。にも関わらず、すでに数年の時を経てきた気がしていた。

 彼が腰掛ける椅子と、組み合わせられた小振りの円卓は、いずれも東方世界で造られた黒檀の物だ。遠く遠く、《絹と磁器の道》と呼ばれる交易路を通って、この西方世界の西海岸諸国にまでやって来た。この地は大陸の最西端である。東方には東方の海がある。
 黒檀の家具は、むろん大変高価な物で、貴族か王族でもなければ、おいそれとは手には入れられない。

 卓と椅子には、梅の木を意匠とした透かし彫りや浮き彫りがある。華美に過ぎない、精妙さが感じられた。
 卓の上には、持ち手の付いた白磁のカップがある。雪よりも透明感のある高貴な純白。卵の殻のように薄いが使用に耐えられるほど丈夫だ。これも東方産の物である。

 メイドのミレーナが王子が座る椅子の傍(かたわ)らに立っていた。長いスカートと長袖の簡素な服。色は黒に近い暗い灰色。白い前掛けを着けている。前掛けにはわずかにレースの縁取りがある。白地に白糸で、上品な浮き彫りのように刺繍が施(ほどこ)されている。白と白の組み合わせさえ守れば、ある程度自由にメイドが自分で好きな刺繍を刺すことが許されていた。
 ミレーナの前掛けには、四隅(よすみ)に四つ葉のクローバーの葉と、クローバーの花があった。

 ミレーナは魔物との混血の娘である。《研究所》で生まれたのではない。魔物にさらわれた人間の母から生まれた。魔物討伐の折に、まだ幼かったミレーナは救い出された。母は精神を病み、魔物の害を受けた人間のための施療院にいる。ミレーナは時々は王宮を出て見舞いに行くのだった。それを、王子は知っていた。
 施療院にはクローバー畑がある。花は蜜を取り、葉は薬草にするためだ。
 それもアレクロスは知っていた。

 そう、ずっと知っていたのだ。
 若い少女と言うより幼い子どもであったミレーナが、自分の身近に仕えるようになり、床磨きなどの下働きをするようになってから。今のミレーナの仕事は、下働きではない。世継ぎの王子フィランスの身の周りの世話であり、時には話し相手にもなる。上手くいけば寵姫の一人にしていただけるかも知れないと、ミレーナに言う者も多いのをアレクロスも知っていた。
 だが、安易に手を出すつもりはない。魔物の娘だからではない。それが理由ではなかった。

「王子殿下、ハーブティーのお替わりをお入れしましょうか」
 すでに空になった白磁のカップ。ミレーナの優しい声。
 アレクロスは卓から視線を上げて、メイドの姿を見た。美しかった。肌も髪も藍色で髪だけは純白。唇の色までが藍色である。頬と手の甲には、髪と同じく白い色で、文様が浮かんでいた。生まれ付きで、魔物の父と同じ特徴である。それもフィランスは知っていた。

「いや、いい」
 やんわりと断る。しばし沈黙。メイドは穏やかに問い掛ける。

「《魔界の貴公子》を気になさっておいでですね」
「もちろん、気になるさ。長年の宿敵だ」
「貴公子は人間の血を引いていると聞きました」
「……そうだな」
 正確には、人間から造られたのだ。それをここで口にはしない。
「私と同じなのですね」
 アレクロスは思わず目を見開いた。
「それは違う」
 口から出た言葉は、自分でも思ったより強い調子となっていた。
「私には違うとは思えないのです」
「いいや、違う」
 アレクロスは、メイドの右手を軽く握った。身分ある者同士で、握手をする時のように。

「お前は俺の大事な国民(くにたみ)の一人だ。決して《奈落の侯爵》と同じではない」
「ですが、どういう違いがあるのでしょう」
「《魔界の貴公子》は」
 アレクロスはそこで言葉をと切らせた。どう言えば相手の心に響くのか分からなかった。

「《魔物の貴公子》は我が国を害そうとしている。お前は違う」
「ですが、時々自分でも分からなくなるのです。私は本当に殿下の敵とは違うのでしょうか。いつか、私もあのようになってしまうのでは。私の父のように」
「魔物から受け継いだ本能を抑える薬は飲んでいるだろう」
「はい。このお薬が広く民間に行き渡ったのも、第一公爵家と第二公爵家の方々のおかげでございます」
 アレクロスはそっと首を横に振った。

「それだけではない。民間の、庶民の薬商人や調薬職人たちの力もあればこそだ」
「私は、本当に王子殿下のお側にいてかまわないのでしょうか」
「もちろんだ」
 そう答えてからアレクロスは思案した。うつむいて目を伏せているメイドに語り掛ける。

「お前と《魔界の貴公子》を隔(へだ)てているのはお前自身の意思だ。お前は決してあのようには生きないのだと決心してここまで来た。だからこれからもそのように生きられる。お前さえそのつもりなら」

 ミレーナはハッとして顔を上げた。

「王子殿下」

「お前にはそれだけの意思がある。自分の意思を信じろ。これまでも自分自身を支えてきた意思を」
 アレクロスは白磁のカップを手に取った。
「やはり新しい茶を淹(い)れてもらおうか、ミレーナ」

いいなと思ったら応援しよう!

片桐 秋
お気に召しましたら、サポートお願いいたします。