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【厳然たる事実に立ち向かえ】ウィルトンズサーガ2作目『深夜の慟哭』第9話

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 アントニーの前には、なみなみと赤ワインが注がれたゴブレットがある。他の者たちには、まだワインは運ばれていない。前菜の代わりに、皿の上には真っ赤な薔薇の花が並べられている。茎をほとんど残さず切ってあり、どれも見事な大輪の薔薇であった。

「なあ、お前、薔薇食うの?」

 ウィルトンは隣に座る盟友にささやき掛けた。さすがに大きな声では、こんな言い方はしない。

「人間の血や赤ワインには及びませんが、赤い薔薇でも多少は活力を得ることが出来ます」

「うわあ、気障(きざ)だな」

 それは偽らざる感想であり、アントニーをからかってみたい気持ちの表れでもある。

「気障と言われましても、これが私の体に合っていますので。ご領主様が用意してくださったのです。ありがたくいただきますよ」

 その言い方は気障ではなかった。少なくとも、ウィルトンには自然な物言いに思えた。

「貴族的な物言いをしても、決して気取った感じにはならない。それこそが真の貴族だ。お前はまさに真の貴族だよ。今の正式な身分の問題じゃない。もっと本質的な話だ」

 ウィルトンは、なおも声をひそめて続ける。

「でも、俺には無理だ」

「仕方がありませんね。ですが、極力失礼のないようにはしてください」

「分かってる」

「ウィルトン・シェザード殿、家名でなく名で呼ばせてもらうが、許してもらえるかな?」

 女領主は訊いてきた。

「はい、どうぞ、領主様」

 ウィルトンは答える。未だ健康と活力を保つセンド・デル・バーナースは、口元に緩やかな笑みをたたえていた。

「では私のことも、センド様でよい。一応敬称は付けてくれたまえ。私はここの現在の領主で、誰にもその地位を譲り渡してはいないのだからね」

「はい。かしこまりました」

 ウィルトンはそっとアントニーを横目で見た。顔は領主に向けたままだ。センドの言葉には、何か意味があるのだろうか。表面には表れていない、深い意味が。ウィルトンは思案した。

 決して領主の座を奪わせはしないと、そう告げたのだろうか。これは警告なのだろうか。古王国時代に領主であったアントニーが、いま再びデネブルを倒した英雄として現れても、その座を明け渡すつもりはないのだと、そう言いたいのであろうか。

 宿屋の主人から聞いた話を思い出した。古王国貴族の末裔である老貴族アンタラスが、自分とアントニーを危険な存在と見なしている、と。

 領主自身はどう考えているのだろうか。主人から聞いた話では、アンタラスの考えはさして領主に影響してはいないようだ。しかし、本当のところはどうだか分からない。

「センド様に最大限の敬意を払います」

 念のためそう言っておく。センドは微笑んだ。人の上に立つ者の、風格ある微笑みだった。

「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しい」

 アントニーも微笑みを返しながら、

「私もウィルトンと同じく、です」

と。

 女領主はそちらにも微笑みを見せた。

「ありがたいね」

 その言葉には、何らの含みも感じられなかった。

 横から、領主の息子が口を出す。

「母上、明日の晩には私どもの娘が帰ってきます。ウィルトン殿に紹介したいのですが」

「ああ、もちろんだ。私としても、孫娘をウィルトン殿に気に入ってもらえたなら、こんなに嬉しいことはない」

「は……?」

 ちょっと待ってくれ。それはどういう思惑なんだ?

 自分たちを脅かすかも知れない存在に娘を娶(めあわ)せ、完全に身内にしようという腹なのだろうか?

 それは先走った考えかも知れなかった。だがあり得る。

 ウィルトンはアントニーを見た。今度ははっきりと顔を向けて。

「それはそれは。大層美しい令嬢でいらっしゃるのでしょうね」

 アントニーはそうとだけ言った。礼儀正しいが、その顔には、なんの感慨も表れてはいない。

 ウィルトンの見るところ、領主の息子とその妻は、若々しく気品を感じさせる顔立ちをしている。この二人から生まれた若い娘なら、確かに美しいと言える容姿なのだろう、たぶん。

「長い黒絹の髪に、黒曜石の輝きの瞳、白磁の肌。そう言われている」

 センドは自慢げな様子を隠しもしない。この場を支配しているのはセンドであり、息子ではない。それは明白だった。

「それはそれは」

 ウィルトンはそれだけ言った。余計なことは言わないでおく。

 と、その時。

「これは、これは。初めてお会いするお客様ね」

 落ち着いた響きの声、優雅で品がある。

 ウィルトンは声がしたほうを向いた。

 先ほど夫妻が入ってきた扉が開いていた。そこに一人の美女が立っていた。歳の頃は二十歳かそこらに見える。

「こら、礼儀をわきまえなさい。エレクトナ」

 エレクトナと呼ばれた娘は、髪の色と同じ漆黒のドレスを身に着けていた。悪びれることなく、やや挑戦的に微笑む。

「これは失礼、お祖母様」

 黒いドレスは、簡素ですっきりとしたあつらえの物だ。宝石も刺繍もない。それでも貴族の娘の衣装として、充分な質の良さを見て取れる。艷やかな光が、ろうそくの明かりを反射してドレスの上を流れる。絹で出来ているのか。ウィルトンはそう見て取った。

 確かに美しい。村で一番の器量良しと言われていた娘でも、これほどの美貌ではなかった。にも関わらず、ウィルトンは不吉な予感がしていた。

続く

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片桐 秋
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