ウィルトンズサーガ【厳然たる事実に立ち向かえ】第7作目『深夜の慟哭』第44話
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一刻が過ぎてからも、まだ長く歩き続けた。二刻目になった。
「ブルーリア、大丈夫か? 少し休んだ方がいいんじゃないのか」
「あら、私なら大丈夫よ。あなたたちはいいの?」
「俺は大丈夫だよ」
ウィルトンは自分の体に『血の契約』の精気がみなぎっているのを感じていた。三つ頭の巨犬との戦いの後は、しばらく地面に座り込んでいたが、もう今となっては疲れはない。
「アントニー、それにロランはどうだ ?」
一応聞いてみる。ロランは背負い袋の中に入ってはいるが、それでも気疲れすることもあるだろうと思うのだ。
本当を言えば、彼もオリリエと一緒にアーシェルの屋敷に残しておいた方が良かったのかも知れない。ウィルトンは、今さらと思いつつ考える。今から戻っても遅くはない、のかも知れないと。
しかし、新種のヴァンパイアにさえ、まだ忌避の残る人間の世界において、魔術の力で人形に変えられた少年がどのような扱いを受けるのかは、たやすく予想出来る。
アーシェルもエレクトナのことも、それなりに信用してはいる。しかしロランの身柄を預けておけるほどには、まだ確かな信頼はなかった。
オリリエは大丈夫だ。いざとなれば自分の身ぐらい守れる。もう成長した大人の女なのだ。それに、兄の自分が言うのもなんだが、見た目もそれほど悪くはない。だからアーシェルもエレクトナも、それなりに好感を持ってくれるだろう。
ウィルトンは、このように考え続けた。
俺のことを英雄として認めてくれているのだから、その妹のことも同じように認めるはずだ。 ロランは、怪しい魔術人形に見えるだろうから 危険かもしれないが。そうだ、アントニーの判断は正しかった。 ここへ連れてきた方が良かったのだ。
「ロランを、アーシェル殿の屋敷に預けておいた方がよかったかも知れませんね」
いきなりアントニーが独り言のようにつぶやき、ため息をついた。
「おいおい、今さら何を言い出すんだ」
「そうですね、もう地下世界まで来てだいぶ歩いてきました。今さら引き返すのはあなたも嫌でしょう。でもこの先、どんな危険が待ち受けるか分からない。本当にロランを連れてきてよかったのかどうか」
「ああ、でもこの先でようやくロランのための体を見つけることが出来るんだぞ。そいつを手に入れたら、ロランにはすぐにその中に入ってもらわないといけない。 でないとその体、すぐに駄目になっちまうんじゃないのか? そしたらロランのためにその体を活かすことは、出来なくなるかも知れないんだぜ?」
ブルーリアの声が前から聞こえてきた。彼女は振り返らずに話す。その通りね、とだけ言った。
「な、そんなわけだ。ロランには来てもらわなくちゃいけない。危険だし、それにこう言っちゃなんだが、アーシェルとエレクトナのことも、俺はお前ほど心から信頼してるわけじゃない」
そう言ってから、これでは誤解を生むだろうと思い、あわてて付け加える。
「それなりには信用できるさ。味方につけておきたい二人でもある。有能だし頭もいいし、 領民思いだ。でも俺たちにとって絶対の味方とも思えない。あくまでも利害が一致するから協力するだけだ。そうだろ? お前とは違う。そしてお前にとっての俺とも違うはずだ。そうじゃないのか」
アントニーはうなずいた。
「ええ、その通りですね。残念ながら、その通りでしょう。いえ、残念というのはアーシェルと エレクトナのことです。あなたのことではありませんよ」
そう言って、いたずらっぽく笑って見せた。
ウィルトンは答える。
「分かっているさ、もちろん。ああロラン、あと少しだ、我慢できるか」
「そういえば、あどのくらい歩くのですか? ブルーリアさん」
ロランが背負い袋の中から声を上げた。ブルーリアはそこで立ち止まり、振り返って言った。
「これまで歩いてきたのと同じだけ、また歩くわよ。ここで少し休みましょう。でももうそんなに遠くはないから大丈夫。ウィルトンにも水を飲みたければ飲ませてあげるし、 食べ物がある場所も分かっているわ」
「じゃあ、 水をくれないか? アントニー、お前は大丈夫か? 俺は一応高級なワインを持ってきた。街の宿屋で買ったやつさ」
「ありがとう。では、いただきます。今のうちに、休憩しておいた方がいいようですね」
「なあ、血は足りてるのか」
「はい、それは大丈夫です。戦いにおいてどんな困難があろうと、敵に遅れを取ることはありません」
「それは頼もしいな」
ウィルトンは笑った。本当を言えば少し心配だった。何と言っても今回は、相手の体に極力傷をつけないようにしなくてはならないのだ。きっと困難を極めるだろう。
一行は立ち止まった場所から近くにあった大きな岩の上に腰掛けた。アントニーはロランを背負い 袋から出してやった。ロランは手足を伸ばし、背筋もぴんと伸ばして万歳の姿勢をした。
「窮屈な思いをさせますね」
とアントニー。
「ご心配なく。アントニー様のご苦労に比べれば、こんなものは何でもありません。それにもう じき、人間の体が手に入るのですから。そしたら 僕もアントニー様と同じように、歩いて行けるのですよ」
ブルーリアは水の玉を出してくれた。水の玉の大きさは、 ウィルトンの片手のひらに収まるほどだ。陽光を通した透明な宝石みたいにきらきらとしている。
「それをそのまま口から吸うといいわよ」
ブルーリアにそう言われて、ウィルトンは従った。冷たい、爽やかな水が、口の中、喉元を満たす。
「なんて美味い水なんだ。よみがえるような気がするぜ。こいつはただの水じゃ、ないんじゃないのか?」
「ただの水ではない? そんなことはないわよ。地上の水に、あまりにも精気がないだけ。ここは呪われた地で、河も泉も湖もありはしないわ。だけど、みんな魔法が使える。本当のあるべき水の姿をよみがえらせることができるのよ。あなたたち地上の人間が知っている水はね、本当に生きている水ではないの」
「本当に生きている水ではない?」
ウィルトンはそのまま繰り返して聞き直す。
「少なくとも私たちは、魔法によって取り出した水こそが、本来の水だと思っているわ。魔術の力では、どんなに地上の水を浄化したって無駄なの。水をきれいにはしてくれても、本当の命をよみがえらせてはくれないの。水が本来持っている命をよみがえらせることは、魔術の力では出来はしないのよ」
「そうなのか? アントニー」
ウィルトンは今度はアントニーに尋ねた。
「妖精たちが持つ不思議な力については、私もそれほどくわしく知っているわけではありませんが、 確かに人間の魔術では出来ない事が、妖精たちには出来るのだとは聞いています。これもきっと そのうちの一つなのでしょう」
アントニーはそう答えてくれた。
「そうなのか。なら上等な赤ワインも作れるのかな」
ウィルトンはブルーリアの方を見た。
「それは無理よ。それは 人間の神官でなくては。それもかなりの高位の神官でなくてはならない。デネブルがみんな追い払うか殺してしまったから、そんな高位の神官はこのあたりの地上にはいないわ。もちろんこの地下世界にもやってきやしない。もし来てくれたら、この旅をもっと楽になったでしょうね」
「そうなのか」
黒髪黒目の英雄は、少しがっかりした。
そうだ、まだ戦いはこれからも続くのだ。戦いが全て終わったら、みんなでのんびり過ごしたい。ウィルトンは、心からそう思った。
続く