ウィルトンズサーガ 第3作目『深夜の慟哭』第40話
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「あ、あの、領主令嬢ともあろう方に、そんなことをされても困ります!」
オリリエはあわてて立ち上がり、床に膝を着いた。令嬢と同じくらいの高さに頭の位置を合わせるためだ。それでもオリリエの方が背が高いために、令嬢を見下ろす形になる。
「どうか、お顔をお上げください。エレクトナ様」
今や英雄と呼ばれる兄を持つ若い女は、領主令嬢に嘆願した。貴族の娘に頭を下げられても、嬉しいとは思えなかった。ただ、いたたまれない思いがするだけだ。
「ありがとう。それでは、私の願いを叶えてくださるのね」
「それは……兄が何と言うか、私には分からないのです。兄が領主になりたがるとは思えません。もしもアントニー様が領主の座にお戻りになるのなら、兄はその補佐役になることはあるでしょう」
「アントニー様では駄目なの。どうしてもウィルトン殿になっていただかなくては」
エレクトナの、アントニーに対する態度は奇妙に見えた。一定の敬意は必ずこもっている。しかし、どこか冷ややかな、突き放したような眼差しが、令嬢の目には感じられるのだった。
なぜなのだろう? アントニー様ほど領主にふさわしい方はいないではないか? エレクトナ領主令嬢はそうは思っていないのだろうか。
オリリエは、わけが分からなくなってきた。実際の貴族というものは、物語の中で聞くのとは大違いのように思えた。複雑で、明快ではない。
「なぜですか? アントニー様はもともと、この地方一帯のご領主でいらっしゃったのですよ。本物の貴族でいらっしゃるんです。兄よりもずっとふさわしいではありませんか」
「デネブルがあれだけのことをしでかした今、もう古王国の時代とは違うのです。たとえ新種と言えど、ヴァンパイアが領主になることを喜ぶ領民は誰もいません」
オリリエは息を呑んだ。 はっとして、思わず頭を上げる。再び令嬢を見下ろす形になった。
「でも、あの、反論する失礼をお許しください。アントニー様はデネブルを倒した英雄で、これまでもずっと、私たちを影ながら守ってきてくださった方なのですよ? 私たちは知っています。兄も、アントニー様の助けがなくては、デネブルを倒せはしなかったのです!」
エレクトナの方は、無礼とも出過ぎたまねとも思っていないようだった。少なくとも、表面的には、寛大な態度を見せてくれていた。辛抱強く、令嬢は続けた。
「その通りよ。それを知らない者はいないわ。あの方はデネブルを倒す前から英雄でいらっしゃったもの。領主の地位を追われても、なお領民を守り続けた英雄ね。でも、実際に領主の座に戻ればどう思われるかしら?」
「私は、いえ私たちは歓迎します! だって」
そこでオリリエは言葉を切った。兄が新種のヴァンパイアに助けられたと告げた時、自分の村の人々がどんな受けとめ方をしたのかを。
なぜそんな反応をしたのか。理由はあるのだ。
二百年前、大改革が起こり、新種のヴァンパイアと呼ばれる者たちが誕生した。ごくわずかな血液だけで生きられるヴァンパイア。それは二百年前のこと。
あるヴァンパイアが、自らの体をそのように変えた。その方法は各地に広まった。アントニーもまた、南方の地で新種となった。だが、それ以前は。
それ以前は。
アントニーは四百年生きていた。
「でもでも、アントニー様は私たちを助けてくださった方です!」
「もちろんそうよ、それを否定する者は誰もいないでしょう。でも領主になるというなら、別の問題なの。分かるかしら?」
「アントニー様は、ご領主となるにはふさわしくないとおっしゃるのですね」
オリリエは、あからさまな不満の色を見せた。エレクトナのせいではないし、侍女の身で失礼な真似をしているとは分かっていた。それでも言わずにはいられなかった。
「人々が抱く畏怖の気持ちは複雑だわ。誰も彼を全て否定したりはしない。でも身近に来て欲しくはないし、領主になるならなおさらに抵抗も大きくなるの。アントニー様はそれを押し切って、領主になるおつもりはないでしょう」
「複雑? 私はアントニー様を恐れてはいません。兄を助けてくださって、兄があれだけ信頼している方です。私も信じます。村の人も、信じているはずです、本当は」
「それは信義の問題ではないの」
エレクトナは辛抱強く言った。
「では、何の問題なのですか?」
「気持ちの問題なの。不合理で、理屈に合わない。時として理不尽な、気持ちの問題なの」
オリリエは察した。令嬢が何を言わんとしているのかを。あの時、兄ウィルトンが自分をおいて村を出ていくと決めた時、その理由がオリリエには分かっていた。
村の人たちはアントニーがデネブルを倒すまでにも、どれだけのことをしてくれたを知っている。彼が新種となった後には、出来るだけ上等のワインの瓶を家の軒先(のきさき)に吊るして、持っていってもらう習わしすらあった。
だが彼は村の仲間ではない。決して近くにいて欲しくはないのだ。来たりてまた去る、そんな魔の存在なのである。
人の気持ちは複雑だ。忌避や嫌悪と、尊敬や畏敬の間に、濃淡のある段階的な移り変わりがある。
村人の多くは、忌避や嫌悪よりも尊敬や畏敬に傾いてはいるだろう。それでも完全に、ではない。
完全に、なのは。
兄ウィルトンと自分だけだ。
オリリエには分かっていた。だから村を出ていく兄を止めなかった。
「新種のヴァンパイアを、不気味なものだと思っているのですね」
「ありていに言えば、そうね」
残念ながら、と言わんばかりにエレクトナは首を横に振った。
エレクトナ自身の気持ちは、どちらに傾いているのだろう。
自らもヴァンパイアと化す身体(からだ)を持つ貴族の令嬢を見つめながら、オリリエは案じていた。
続く