【和風ファンタジー】海神の社 第四話【誰かを守れる人間になれ】
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鷹見は希咲と別れて施療院を出た。本当はもっと側にいたかった。だが、希咲は自分の今の姿を見られるのが苦痛であるようだ。こうして会ってもらえただけでも、良かったと思わなくてはならないのだろう。
別れる間際に希咲は言った。
「鷹見、お前は私より背も高く、たくましい体つきになったのだな」
「これはきっと宮部様のお陰です」
「そうか。七年間の成長を私が見守りたかったな」
鷹見は胸が詰まる想いがした。ただ何も言わずに頭《こうべ》を垂れて、沈黙の時が流れるのに任せていた。
施療院を出た時、鷹見は宮部がいたのには気がつかなかった。真鶴も何も言わなかった。真鶴からもらった光る石を希咲に渡してから、鷹見は主《あるじ》の側を離れた。
「真鶴がくれた石をお渡ししてきた。喜んでおられたよ」
「はい、希咲さまからもお礼の言葉をいただきました」
稲神の使いの少女自身は、ついに希咲と直《じか》に会おうとはしなかった。障子越しに声を掛けただけで、希咲も中に入れとは言わなかった。
「希咲様に、恨み言の一つも言っていただければ気が楽だった」
帰り道、真鶴と並んで歩きながら、鷹見は不意に言った。
「希咲さまが恨み言などおっしゃるわけがありません。あなたは希咲様に恨まれるような真似はしていませんよ」
「魔神に殺されるよりは、なのか」
「それだけではありません。この辺り一帯を救えたのはあなたのおかげですよ。子どもたちも、ああするしかなかったでしょう。そうでなければ、死に勝る苦しい一生が続いただけです」
海の魔神の手で首だけになった者は、ただ生きているだけでも苦痛を味わい続ける。それを当時から鷹見も知っていた。
「俺はそんな風に割り切れない」
「それでも、希咲様はあなたに恨み言をおっしゃる方ではありません。恨む事など、何一つないと、そうお考えでしょう。あなたはご存知のはずです」
「恨むべきは魔神か」
「そうです。他に何がありますか?」
「希咲様がお恨みにならなくとも、俺は自分を恨む。自分の無力を」
真鶴はもう何も言わなかった。
その日の夜。
鵺《ぬえ》が現れたと、宮部の荘園は騒ぎとなった。噂《うわさ》は駆け巡《めぐ》り、死人《しびと》も出たと皆が恐れた。まさに、こんな時こそ、鷹見のような御霊《みたま》狩りの出番である。人々が恐れてやまぬ鵺であっても、鷹見には恐るるには足りない。
荘園の外側は、誰にも支配されていない土地だ。自由な土地であるとも言えるが、誰からも支配されぬ地は誰からも保護されぬ地でもある。法もない。常に危険と隣り合わせなのだ。
鵺はまだ広々とした荘園の中にまでは入り込んでいないようである。不確かな噂話や流言飛語《りゅうげんひご》を選《え》り分けて、何とか確証を得た。
鵺の鳴き声が聞こえたが、荘園に入って来てからでは遅いので、何とか退治してほしいと頼まれた。そう言ったのは荘園の内側で暮らす猟師たちである。腕の良い猟師でも、鵺を狩るなどは思いもつかないのだ。
鷹見は荘園と外の土地を隔(へだ)てる結界の近くに立つ。その時、確かに鵺の鳴き声が聞こえた。高く澄んだ、笛を鳴らすような鳴き声。物悲しく響き渡る声だ。寂しさと恨みとをを秘めてでもいるかのように。
「ほら、あれですよ」
猟師の一人が恐恐《こわごわ》言う。
「確かに聞こえる。まだ中には入っては来ない」
鷹見は答えた。御霊使いや御霊狩りは夜目が利く。真昼と同じようにとはいかないが、夕暮れ時の薄暗がりと同じ程度には夜の闇を見通せた。
今宵《こよい》は月が細く、他には星々の明かりがあるばかり。
「入って来ないうちに、お願いします」
その猟師は深々と鷹見に向かって頭を下げた。後ろにいる仲間の猟師たちも。
「よし、出るか」
話を聞いて、あらかじめ特別な付呪《ふじゅ》を施した弓矢を身に着けてきた。藍色の作務衣《さむえ》の下にも、付呪をした肌襦袢《はだじゅばん》が身を守る。
「待て、一人で行く気か」
背後から聞き慣れた声がした。振り返らずとも、誰なのかは分かる。いつもと変わらぬ気さくで陽気な物言いは東猛狼《あずま たけろう》のものだ。
「鵺一匹なら、俺一人でも何とかなる」
「オレにも行かせろ。手柄を立てる良い機会だからな」
東猛狼は薙刀(なぎなた)を手にしていた。刀身の部分が青白く光る。刃に付呪してあるのは明らかだ。
「さあ、行くか」
鷹見の返事を聞かずに薙刀を軽く一振りして、先に立って荘園の外に出る。
作務衣姿なのは同じで、やはり付呪した肌襦袢を着込んでいるはずである。でなければいくら御霊狩りでも危険だ。
「なあ、鵺が一匹《いっぴき》とは限らんぞ」
「それは確かにそうだ」
仲間を呼ばれる前に一匹目には対処しなければならない。暴走する荒御魂の化身『荒《あら》の変り身』を相手にするには、致命的な遅れだ。
魔神にしろ鵺にしろ、倒された後は自然界に帰る。自然界の活力は循環し、また新たなる神として再生し、和御魂と荒御魂の二つの面を持つようになる。
「よし、来てくれ。そうしてくれれば助かる」
鷹見はそう言って矢を弓につがえた。二人してしめ縄で守られた結界の外に出る。その途端《とたん》、空気の感触が変わった気がした。秋の夜の不吉な風の冷涼さ。荘園内にいるときと異なり、穏やかで心地良い涼しさではない。
「細い月がきれいだな。満月もいいが、こんな月の夜も良いもんだ」
武狼は、荘園の外側に出たことによる空気の変化も、一向に気にせぬ様子だ。
「本当は今晩はこの月のように、ほっそりした美人と、酒でも付き合ってもらいたかったんだがね」
東猛狼はいい男だ。晩酌《ばんしゃく》の相手などに困りはしていない。
その名の通りの狼を思わせる精悍《せいかん》な容姿と裏腹な、気さくな態度で猛狼は男女を問わず人気がある。それを鷹見は知っている。
「そうか。つき合わせて悪かったな」
「いやいや、それはかまわないぞ。後でちょっと話をふくらませて、居酒屋談議にしてやるからな」
「尾ひれをつけるのは、ほどほどにしておけよ」
と、その時。
猛狼が警告を発した。鵺が頭上高くの木の上にいた。猿の顔にたぬきの胴体、虎の尾。鷹見は気づくのが遅れた。
「鷹見、手柄を立てろよ。南城(みなしろ)様に褒(ほ)めてもらえ」
からかい半分の猛狼の言葉を聞き流し、鷹見は頭上にいる鵺に向けて矢を放つ。尾をかすめただけでかわされた。
「くそ」
確かに俺は希咲様には認めてもらいたい。ただ忠実なだけでなく、実力のある御霊狩りとして。
一方、希咲は海神社《わだつみしゃ》の鎮守の森の中の施療院で懊悩《おうのう》していた。
「鷹見、済まないな。不甲斐《ふがい》ない主で」
真っ白な海塩を一つまみ。今の希咲にはこれが精一杯である。海神自身の力を借りれば、死が待つのみだ。希咲はまだ死ぬわけにはいかないと考えている。
「お前のためにも、必ず元の姿に戻ってやる。そう、必ず」
他ではいざ知らず、東方世界の東端のこの大八島《おおやしま》では、神は必ずしも強大な力を持つ大げさな存在ではない。川や海の波や泡の一つ一つ、名もなき草の一本一本にさえも神々は宿っている。このひとつまみの海塩にも。
「祓(はら)い給(たま)え、清め給え 神々とともにありし道を 祝福し そして守護し給(たま)え」
そう唱えながら海塩を、鱗状《うろこじょう》のかさぶたにすり込んでいく。まずは左腕から。文字通りの傷口に塩をすり込む痛みが走る。
激痛に耐えながら清めをしてゆくと、徐々に青黒いかさぶたが薄れ、元の肌の色が再生してきた。一つ目のかさぶたを消しただけで、全身に脂汗が浮かぶ。
「必ずや元の身体(からだ)に戻る」
そうやって、短いろうそくが燃え尽きるまでの間を痛みに耐えた。
続く