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英雄の魔剣 4

 今、アレクロスの眼前にいる巨大な熊は、くすんでいてやや灰色がかった褐色の毛皮に覆(おお)われている。
 王子は思う。なるほど、なかなかいい毛皮だ。倒した後に上手く剥(は)いでなめせば、良い敷物になりそうだ。それは王宮外で暮らす職人の仕事になるだろう、と。
 実のところ、心的余裕がそれほどあるわけでない。それでも、狩猟への抑えきれない欲求が湧き上がる。渇望。飢えにも似た熱情。
 黒い巨大な熊に見えるが、今ここにいるのは野生の熊などではなくれっきとした魔物だ。それは二本脚でそびえ立ち、唸(うな)り声を上げてアレクロスを睨(にら)みつけていた。目が赤くなり始める。だが、敵はそのまま動かない。
「お前が来ないなら、こちらから行く」
 アレクロスは薄笑いを浮かべた。この表情の意味が実験体に分かるかどうかと考えたが、そんな知能はなさそうだ。
 王子は、油断はせず攻撃をためらわない。跳躍した。助走をつけずにこれだけ高く跳べたのに驚く。やはりセシリオたち、第一公爵家が再現してくれたこの鎧の魔力は絶大だ、とそんな思いが瞬時に脳裏をよぎる。
 実験体の頭上より高く跳んだ。ほぼ真上から魔剣を振り下ろす。実験体の頭蓋骨を叩き割った。
 熊もどきは野生の熊よりも怪力であり、動きは俊敏だ。ゆえに王子は、熊もどきの手の届かない頭の上からの猛攻を仕掛けた。再び跳んで頭部に斬り降ろす。魔物は身動きをしなくなった。

――苦しまずには死ねただろう。
 王子の内心である。

「これは〈研究所〉最強なのか?」
 そうではない。そう否定してくれるのを期待していた。
「最強ではありません。まだ他にも」
「もっと強い実験体がいるのか」
 セシリオが答える前に、アレクロスの背後で物音がした。世継ぎの王子は巨大熊に背を向けていた。振り返る間もなく、背中に衝撃が響く。背骨から体の芯まで痛みが染み渡った。
「〈静止せよ〉」
 セシリオは魔術を用いてくれた。声とともに熊の動きが止まる。
「王子、とどめを」
 身動きの出来なくなった実験体は、人間の事情のために造られた。おそらくは外を出歩くこともさせてもらえずに。だが、ためらってなどいられない。もしこれが実戦であればどうなっていたか。アレクロスはためらいと情を断ち切った。
 黒き剣をもって、渾身(こんしん)の力をふるい、実験体の頸(くび)をはねた。鮮血を吹き出して頭部が転がり落ち、巨体は支えを失って倒れる。

「ありがとう、油断していた」
 アレクロスは親友に礼を言う。
「お気になさらずに、殿下。どうか今後は、絶命したか否かをお確かめくださいませ」
「ああ、その通りだ。次からはそうしよう」
 この身体(からだ)は、生まれた時から俺一人の物ではないのだ。アレクロスはそう思う。それが重荷だとは思わない、今は。魔術による鎧と武器とが、心身双方に力を与えてくれている。だが、それこそが本来あるべき姿なのだ。この力はなぜ失われていたのか。そう思いはするが、今は目の前の訓練にこそ目を向けねばならない。
「これよりもっと強いモノとはいかなる魔物なのか」
 世継ぎの王子の問いかけに、長年の友は含みのある表情を見せた。口元に、意味有りげな笑みを浮かべて。
「我らが第一公爵家の娘、私の妹に殿下のお相手をさせます」

 王子とその親友は〈研究所〉の別棟に向かった。アレクロスは、ここに来るのは初めてであり、この場所の存在さえ知らされていなかった。
 《研究所》の中は、王宮内の他の場所と同じく、華麗であった。豪壮な列柱の間に、見事な彫刻が並べられている。女神の像や伝説の一角獣、翼ある白馬の像などが、今にも動き出しそうに活き活きとして見える。
 奥の広間に、とても美しい娘がいた。紺色の髪は短く切りそろえられ、象牙色のなめらかな肌の色に映(は)えている。
 髪と同じ色の簡素なドレスを着ていた。幅広のリボンのような帯には、短きワンドが差してある。魔術の力を発動させ、増幅させる物だ。
 セシリオも増幅器を常に身に着けている。中指にはめた銀の指輪で飾りもなく目立たない。
 セシリオの妹のワンドは、森の木の枝から折り取って来たばかりのようだった。みずみずしい白樺(しらかば)の枝で、若緑(わかみどり)が先端にいくつか芽吹いている。

「これはこれはサーベラ姫」
 アレクロスは腰を折り、身分の高い貴婦人に対する当然の礼を示した。
 名を呼ばれた姫は丁重に礼を返した。ドレスの裾(すそ)がわずかに持ち上がるように、スカートの上部を両手で軽く持ち上げ、両足を曲げて身を屈(かが)める。
「王子殿下、お越しいただきありがたく存じます」
「健やかにしていたか」
「はい。国王陛下のご威光のお陰様を持ちまして」
 アレクロスは少しだけ胸がざわめくのを感じた。自分のことも言えなどと、心の狭いことを考えてはいない。仮にこの鎧を身に着けておらずとも、そこまでは。それでも不安はある。父王の後を継ぐに相応しい王子だと、この姫に見なされているだろうかと。
「では姫、私が父に相応しい世継ぎとなれるよう、手合わせをしてはいただけないだろうか」
 公爵令嬢サーベラは、とても驚いた様子である。頼りなかった王子の変貌ぶりに、であろうか。
 第一公爵家の姫は、セシリオの妹だけあって賢いだけでなく胆力を秘めていた。それをアレクロスは知っていた。三人がごく幼い頃から。
 サーベラ姫は、フィランス王子に軽く一礼すると、
「私(わたくし)でよろしければ、お相手させていただきます」
 こう返答した。

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片桐 秋
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