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ホフマン『砂男』とシェリダン『カーミラ』序盤の比較

 ホフマンの『砂男』は1817年に発表された小説である。ドイツ・ロマン派と呼ばれる時代の文学作品だ。幻想文学の一種とも言える。

 シェリダンの『カーミラ』は、1872年に出版された。若い女性同士の恋愛を書いた、耽美的な吸血鬼文学として著名である。

 以前のこの記事でも比較に出したが、この記事で取り上げた違いとしては、主人公と背景となる世界との関わり方である。

 『砂男』は『能動的に状況に働きかける主人公』であり、『世界や出来事は、主人公のために、障害や恩恵として存在する』そんな風に物語が展開する。

 『カーミラ』は、『やや受動的な主人公』であり『世界や出来事は、主人公の意思や行動とは関わりなく、そこに厳として存在する』そんな風な世界観で展開する。

 正直に言うと、私の読書歴は『砂男』(ザントマンと、英語タイトルで紹介している本もある)のようなタイプに偏っており、あまり『カーミラ』タイプは読んだことがない。

 ジャンルも新旧も媒体もこだわらずに見たり読んだりしてきたはずだが、知らず知らずに好みの偏りが出てくるようだ。

 さて、この2作の違いはそれだけではない。序盤からの展開の速さ、および情景描写のやり方や情報の出し方にも違いがある。

 『砂男』のほうがずっと展開が速く、情報の出し方も端的にまとまっている。

 この小説は三人称だが、主人公が親友に出した手紙の文面から始まる。ゆえに、三人称小説でありながら、出だしは一人称のような書き方になっている。『カーミラ』は、ずっと一人称である。

 手紙の文面で始めるのは、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』もそうである。一定の期間の時代に流行していた表現法なのかも知れない。それについては、よく調べていないため、ここでは語れない。

 少しだけ引用してみよう。光文社古典新訳文庫版からの引用となる。

ナターナエルからロータルへ 

 きっとみんな心配しているだろうね、長いあいだ――ほんとに長いあいだ、便りをしなかったから。母さんは怒っているだろうし、クララはぼくがここで面白おかしく暮らしていて、ぼくの胸ふかく刻みこまれていた愛しい天使の面影を、きれいさっぱり忘れてしまったと思っているかもしれない。

 ――でも、そんなことがあるものか。毎日、毎刻、きみたちみんなのことを思っているし、ここちよい夢には、ぼくのかわいいクララの懐かしい姿があらわれて、ぼくがきみたちのところへ行くといつもそうだったように、あの澄んだ目でやさしく微笑みかけてくる。

 ――ああ、こんなに心がずたずたに引き裂かれていて、どうしてきみたちに手紙を書けただろうか! このあいだから頭がすっかり混乱しているんだ。

 と、このように物語は始まる。読者は最初から、語り手、主人公であるナターナエルに何があったのかと、関心を引かれるように書かれている。

 主人公にはある出来事が起こったのだが、その出来事と、それが呼び起こした幼い日の恐怖の思い出は、主人公のためだけに特別に設定されたものだという印象を与える。

 それが主人公にとって、都合の悪いものであろうと、とにかくこの物語の中心は間違いなく主人公であり、怪異な出来事も、クララなる恋人の存在も、主人公を中心として展開する物語の中で、主人公にとって乗り越えるべき、あるいは守るべき存在として描き出される。

 リンクを貼った前回の記事で、『カーミラ』を「昔の小説だから展開が遅い」というように書いたが、『砂男』は『カーミラ』より昔の小説である。

 にも関わらず展開はずっと速い。文章表現にはさすがに時代を感じるが、文体を変えれば、そのまま一般文芸のみならず公募系ライトノベルでも通用しそうな展開の速さと、端的にまとまっていて、きびきびした文章である。

 次に『カーミラ』を引用してみよう。

序章 

私は医学、とりわけ内科と外科の専門教育を受けているが、どちらの分野でも実際に患者を診察した経験はない。

しかしながら、両分野についての研究には今なお深い関心を持ち続けている。

 私がこの医師という立派な職業を、その道を歩み始めてまもなく辞したのは、怠惰なせいでも、気まぐれのせいでもない。原因は、解剖刀によるごく小さな切り傷であった。

 この元医師が次に、ある女性から預かった手記を紹介している。それが物語の真の始まりである。

第一章 邂逅 

ここオーストリアのシュタイアーマルク州で、わたくしどもはとりわけ由緒ある一族というわけでもございませんが、こちらでは「シュロス」と呼ばれるお城に住んでおります。

この地方ではわずかな収入でも立派に暮らしていけるのでございます。年に八百か九百ポンドあれば貴族のような暮らしができます。これが本国となりますと、わたくしどもの懐具合ではたいそうつましい暮らししかできないでしょう。

本国と申しましたのは、父がイギリス人だからでございます。わたくしもイギリス名を授かっておりますが、彼の地を目にしたことはございません。

ですが、辺鄙で荒涼としたここシュタイアーマルクではとにかく何もかもが驚くほどに安いので、そんなにたくさんのお金がありましても、わたくしどもの生活がこれ以上楽になるとは思えませんし、ましてやこれ以上の贅沢など想像もつきません。

と、まあ、このように、主人公をいきなり登場させないで別の人物の語りで始まり、本編に入ってからも、主人公の身の上話がゆっくりと語られる。

 すぐに本題に入らないのである。 

 正直なところ、私はホフマンの『砂男』のような小説のほうが好みで、『カーミラ』だと展開が遅く、情景描写などもやや冗漫だと感じてしまうが、これは単に好みの問題である。

 何が言いたいかと言うと、こうである。

・人は知らず知らずに好みの偏りが出てくる。

・いろいろなフィクションを見たり読んだりしているつもりでも、気が付かないうちに偏りが出てくる場合がある。私はそうだった。

・好みの偏りで、他者の制作した作品を評価しがちである。

 つまり、『砂男』タイプが好きなら『カーミラ』はやや冗漫だと感じるだろう。私がそうであるように。

 逆であれば、おそらくは、というのはそれは私の平素の感覚ではないから推測になるのだが、展開が速すぎる、もっと丁寧に心理描写や情景描写をやったほうが良いと感じるのではなかろうか?

 そんな事を考えた。

 というのも、古典的な古い名作の小説を読んで、そんな作風を現代によみがえらせてみようとする試みがごく一部にあり、私もその一人ではあるのだが、古典といってもいろいろあり、好んで読んでいる物に違いかあれば、当然書く小説にも違いは出てくるのである。

 ま、古典であるから描写が多く展開が遅いとは、一概には言えないのも確かである。

 そんな事を考えた。

 ここまで読んでくださってありがとうございました。また次回の記事もよろしくお願いします。

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片桐 秋
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