【厳然たる事実に立ち向かえ】ウィルトンズサーガ 第3作目『深夜の慟哭』第50話

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 ウィルトンの後ろから、アントニーも追いかける。

「あったぞ、あそこだ!」

 やや離れたところに、紅い薔薇が咲いていた。薔薇の木の茂みに、満開の薔薇が咲き誇っている。

「良い香りがしてきた。薔薇の香りだ。お貴族が香水に使うようなやつだ。それに薔薇の花びらのお茶! 本で読んだぞ」

「今では、薔薇は庶民にも親しまれるようになりましたね」

「そりゃそうだが、やっぱり薔薇は今でも、貴族的な高価な花さ」

 二人は並んで薔薇の茂みまでやって来た。

「とても良い香りです。何という、品格を感じさせる色合いと芳香でしょうか! 私のかつての屋敷で栽培していた薔薇も、こんなに見事な大輪の薔薇ではありませんでした」

「よし、早速食ってみろよ」

 食ってみろ、などという言い方をあえてするのには、明らかな意図があった。からかいが半分、そしてもう半分は、言い切れぬ複雑な思いのためである。

 そうした庶民的な、くだけた言い回しを、 アントニーに対してしてみたいという欲求から離れられなかった。

「はい、『食って』みましょう」

 アントニーは薔薇を一輪摘み取る。口に押し当てた。

「とても良い香りです」

 花は見る間にしおれてゆく。

「これは? センド殿の屋敷では食べていただろ」

「生気を吸うだけでもいいのですよ」

「そうか。そう言えば、貴族の食卓には、赤い薔薇の花びらを煮詰めてソースにして、肉や魚にかけるんだろう? 俺、そんな話聞いたことがあるぞ」

「古王国の時代には、そんな贅沢は滅多に許されるものではありませんでしたよ。でも今では、お祝いの日にそうしたことを行う貴族は多いようですね」

「そうなのか」

「庶民の家には薔薇の花が、お祝いの日に花輪となって飾られるぐらいでしょうか。あるいは、 とっておきの花瓶に挿して、食卓の真ん中に飾る。そのようにして親しまれていますね」

 ウィルトンはうなずいた。暗黒の夜に包まれた世界でも、少しずつ世の中は進歩してきた。外部からの流入も、完全に断たれていたわけではない。

「ああ、そうだな。俺は赤い薔薇も好きだが、白いのも好きだ。お前は赤い薔薇でないと生気を吸うことが出来ないのか?」

「はい、そうです、この、あたかも吹き出したばかりの鮮血のように赤い薔薇でなくては、生気を上手く吸うことは出来ません。他の色合いの薔薇でも、全く出来ないわけではないのですが、一番いいのは真っ赤な薔薇なのです」

「そうなのか、じゃあ思いっきり生気を吸うといいぞ。こんなに見事な薔薇が一箇所に咲いてるのは、なかなか見られるもんじゃない。アーシェルの屋敷にも、こんな薔薇は多分ないんじゃないかな。まあ、庭の全部を見せてもらったわけじゃないから分からないが」

「そうですね、アーシェル殿のお屋敷には、もっと小ぶりな薔薇が控えめに咲いてるのが似合っていますよ。オリリエにもその方が似合っているでしょう」

 アントニーの笑顔には、どこか翳(かげ)りがあった。

 ウィルトンが、オリリエをアーシェルの嫁にやりたがってるのを知っていた。それはすでに聞かされていたのだ。あの二人が幸せになってくれたらと思う。もちろんエレクトナも。

 あの三人には幸せになって欲しい。だがセンドを追い払って自分が領主の座に着くのは考えられなかった。

 ウィルトンが領主になるならば? それも考えられない。センドは老いたりとはいえ、まだ完全に衰えきったわけではない。

 デネブルを倒したことによって、時代の変化が大きく訪れつつある今だ。そうでなければ、つつがなく領地を治め続けていられたはずである。

 デネブルは倒すしかなかったし、倒して良かったのだ。いや、倒すべきだった。センドも夜の闇からの解放を望んでいたはずだ。しかし、その結果として訪れた時代の急激変化は、センドのせいではないのだ。

「なあ、そんな思い詰めた顔すんな。しばらくはここで休もうぜ。考えなきゃいけないことはさ、この呪われた地下世界を解放してからでもいいじゃないか。その後また考えよう」

「ウィルトン、私は」

「待ってくれ。俺たちがこれだけ大きな功績を持って帰ったら、センド殿もさすがに考えを変えるかも知れないぜ。 要するに 年寄りはさ、大きな変化にはついていけないものなんだ。だから時間が必要なのさ」

「アーシェル殿もエレクトナ殿も、それを分かってくれたらいいですね」

「アーシェルたちが、祖母や祖父の態度に苛立ちを感じるのも分かる。俺も十代や二十代初めの頃はそんな風だった。でも今では年寄りの考えも多少は分かるような気がしてきたのさ」

「おや、私よりずっと年下なのに、老成した者のようなことを言うのですね」

 アントニーの笑みから翳りが消えた。ウィルトンもニヤリとしてみせた。

「少なくとも俺たち庶民は、センド殿に恩義がある。デネブルが支配していた闇の時代を治めてくれたのはセンド様なんだ。もっと酷い領主の話だって俺たちは聞いたことがあるんだよ」

「ええ、そうですね」

 アントニーは首を横に振る。痛ましく感じる想いを振り切るように。

「だから、英雄として人々から祭り上げられるようになったからって、いきなり力でその地位を追うような真似はしたくないよ。多分そんなことをしたら、そのうち何十年か後に俺たちにその因果が巡ってくると思うんだ。これは迷信深い考えかも知れないが、俺はそれを信じてるよ」

 アントニーは、手からしおれた薔薇を落とした。それは地に落ちて、見る間に消えてゆく。

「ええ、そうです。私が領地を追われてから、あの一族が代々私の領地を治めてきてくれました。いえ、元は私の領地だった場所です。代々まともな領主が多かった。私はそれを知っている。四百年間、それを知っているんです。今更、地位を奪い返すなんて、そんなの恩知らずなのは私の方になってしまいますからね」

 それにもう、私は貴族としての責務から逃れたいのだ。単なる無欲ではない。

 アントニーはため息をついた。

 そうして、半刻ばかりは二人で黙って座っていた。薔薇の香りを嗅ぎながら、金色と薄紅の雲が流れる空を見上げていた。

 と、いきなり、離れた場所からロランの叫びが聞こえた。

「ロラン、どうしたのです?」

 アントニーは、ロランが駆け寄るのを見た。

「大変です! ブルーリアさんが」

 英雄二人は立ち上がった。ロランの方へと駆けて行った。

続く

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片桐 秋
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