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英雄の魔剣 40

 第二公爵たるキアロ家のグレイトリア姫が侍女を伴って現れた。ここはアレクロスの自室ではない。自室の隣にある執務室である。代々王のためでなく、世継ぎの王子たる者のために用意されてきた部屋であった。
 侍女は、執務室のさらに隣にある小さな部屋で女主(おんなあるじ)を待つこととなった。

 執務室には豊かな花の香りがただよっていた。ラベンダーとゼラニウムから採った香油を、混ぜた香りに似ていたが違う。新たに第二公爵家が作り出した新種の香料である。

「ありがとう。これはグレイトリア姫の手柄であるな。実に素晴らしい」
「身に余るお言葉、ありがたく存じます」
 グレイトリア姫は右手には革の手袋をはめ、左手は素手のままであった。この革手袋は、危険な薬物を扱う際に使う。第二公爵家の一族には必需品だ。単なる革でなく、特別な薬品により強化してある。薄く柔らかいのに、極めて丈夫なのはそのためである。

 王子はと言えば、その衣装は非戦闘時の物であるにも関わらず、帯剣したままである。姫はそれを見て、少しだけいぶかしむ様子を見せた。だがすぐにその表情は消え、礼儀正しく端正な面持ちとなる。

「爪の先までも美しい」
 アレクロスは、姫の左手を見てそっとつぶやくように言った。独り言ではない。姫にも聞こえるように、である。
「あ、ありがたく存じます……」  
 グレイトリア姫は顔を赤らめた。
 姫と同じように執務室に呼ばれたセシリオは軽くため息を付く。彼としては、妹以外の女性に主君の心が向かおうと、いたずらに妬心(としん)を抱きはしない。ただ、様々な理由から、あまりに気軽に寵愛をばら撒かないで欲しいとは願っている。
 ……後が大変だ。

 アレクロスの方は、親友であり第一の臣下でもあるセシリオの内心には気が付いていた。国王や世継ぎの王子が正妻の他に側妻(そばめ)を置くのは特に禁じられているわけでも、悪徳とされているわけでもない。それでも側に置くと決めたならその後も責任は取るべきで、いたずらに手を付けて後はかえりみないのでは駄目なのだ。それでは恨みを買うであろう。当の本人からだけでなく、その一族や配下の者からも。それはコンラッド王国の治世に悪影響をもたらす。

 セシリオとしては、主君がグレイトリア姫をたぶらかすと本心から思っていたわけではない。それでもいくらかは気に病んでしまうのだった。
 一つには、手を出さなくとも次の正妃になれると期待を抱かせて、「裏切られた」と思われても厄介だからなのだ。勝手に期待する方が悪いのだ、ともこの場合は言えないであろう。少なくとも、アレクロスがそれを口にしても単なる言い訳としか思われまい。

 そのグレイトリア姫は、セシリオの口からマルシェリア王女の話を聞くと、あからさまに前王国の王女に隔意を抱いたようである。
 嫉妬からではない。
 王女は眠っている間、自分の国が滅びたのをまったく知らずにいた。滅ぼした当の英雄の子孫を、果たして心から愛するものであろうか。グレイトリア姫には、そんな疑念があるのだった。姫ははっきりと、その旨をセシリオと世継ぎの王子に告げた。

「姫の懸念ももっともだ」
 言いながらアレクロスは、サーベラ姫の王女に対する態度とはずいぶん違うのだなと感じていた。あるいはグレイトリア姫の方が、慎重で賢明と言えるのかも知れなかった。

「王女……殿下を、お一人にしていて大丈夫なのでしょうか」
 グレイトリア姫は、殿下と敬称を付けるのをためらった。アレクロスもセシリオも、それを聞き逃しはしない。

「姫はマルシェリア王女が、何か悪いことを企むと考えているのだな」
 キアロ家の姫は、静かに首を横に振った。
「さあ、悪いこととは限りませんが、王子殿下は、その方をお味方にとお考えなのではありませんか。であれば万が一、例えば隣国のブリランテ女王国に行かれるようなことのないようにしなければ、と」
「なるほど、気丈な王女が俺を嫌って離れるならば、ブリランテ女王国は身を寄せるには良き国かも知れぬな。女王は油断のならぬ女だ。決して無能ではない。前王国の知恵と力を持つマルシェリア王女を宮廷に置くために、出来るだけの手は尽くすであろう」

 そんなブリランテ女王国の女王メリアには、近隣諸国に知られた好みがある。ことのほか、美女を好むのである。
 宮廷の女官たちは自国のみならず近隣諸国からも集めた選りすぐりの美女や美少女ばかりだ。東方世界から来た、奴隷として売られていた娘も少なからずいる。
 東方世界では奴隷は大事に扱われているらしい。北の恐るべき神聖帝国における扱いとは違うようだ。それ以外では、西方世界には奴隷はいないことになっている。一応は。
 メリア女王の宮廷に迎えられた奴隷たちも、今は女官の地位を与えられ、奴隷とは扱われていない。

「しかしマルシェリア王女は、メリア女王の好みからすると、いささか勝ち気で気位が高過ぎるのではないか」
 アレクロスはやや冗談めかして笑ってみせた。グレイトリア姫の方は真摯な態度を崩さない。
「恐れながら王子殿下、メリア女王が身辺に集めている女たちは、女王のそうした好みからだけ集められたのではございません。寝所にはべらずとも、知勇優れて役立つ者も多いのでございます」
「確かにそうだ」
 アレクロスははっきりと肯(うべな)った。

「それで、姫はどうすればよいと思うか」
 グレイトリア姫は冷静に答えた。
「今すぐにマルシェリア王女を探し出してくださいませ。王女が市井を探るのは、王子殿下直々のご家来と共になさるべきかと存じます。それをマルシェリア王女が拒否するのであれば」
 グレイトリア姫はここでいったん言葉を切った。ためらいが見える。
「何だ。言ってくれ」
「もしも王女が、どうしても王子殿下のご命令を聞き入れぬならば、王女はこの世にいられなくなるべきです。魔物やブリランテ女王国の手に渡る前に」
 しん、と静けさが降りてきた。セシリオもアレクロスも平静な様は崩さぬが、二人とも内心では、キアロ家の姫の遠慮のない進言に少しだけ驚いていた。

「いささか出過ぎたことを申し上げました。しかし私をお呼びになられましたのは、爪や香料の件ではございませんでしょう? 王子殿下」
「もちろんだ、グレイトリア姫。ああ、安心してくれ。毒物は使わないよ、貴女に無理は言わない。ただ敵の手の内を知るには、そちらの方の研究も大切だ。分かってくれているとは思うが」
「はい、王子殿下」
 性急に話を変えた王子に、姫はすぐに合わせてくれた。マルシェリア王女の件は、これ以上はここで話さないと、察したのであろうと思われた。

「キアロ家の力をいかにしてお使いになりたいとお考えですか、王子殿下」
 アレクロスは答える。
「海の女神マリシアの神官たちの話を、グレイトリア姫も知っているな」
「はい、それが何か」
「結論から先に言おう。海と山から、《奈落》の魔物どもを挟(はさ)み撃ちに出来ないかと考えてな」
 セシリオとグレイトリア姫はお互いに顔を見合わせた。お互いに驚きをあらわにしていた。
 アレクロスは落ち着いて続ける。

「軍を繰り出して急襲するのではもちろんない。それでは人も物も資金も無駄になるだけだ。そうではなく、少数精鋭だけで、《奈落》を攻撃する」
 それを聞いて、グレイトリア姫は即座にこう返した。
「しかし王子殿下、マリシア神官たちが言うには、海の守護を地にもたらすのは不可能であると」
「そうだ、大地が大地のままならば、海の守りがもたらされるわけはない」
「と、おっしゃいますと」

「今さら言うまでもないが、この王都は海からさほど遠くはない。海沿いや大河の岸辺に人の住む地が栄えるのは、古来よりよくあること。我らが王都もその一例と言えるだろう。さて、我が王都には河川も中を通っている。それは海に通じる道だ」

「それはひょっとして」
「いいぞ、グレイトリア姫。最後まで言ってみてくれ」
「海の水をこの地の奥まで引き込み、王国内に内海をお造りになるのですか」
「そうだ。さすがは第二公爵家の令嬢。よくぞ理解してくれたな」
「ですが、それでは大工事となりましょう」

 言ってから、グレイトリア姫はちらりとセシリオの方を見た。第一の側近の考えを知りたかったのでもあろうし、自分ばかりが話していてはまずいのではとも考えたのであろう。アレクロスはそうと察した。
「その点については考えてある」
 アレクロスはそう答える。
「お考えは分かります。《山の種族》ですね」
「そうだ。さすがはセシリオだ。よく分かってくれたな」
 アレクロスは手にしたガラスペンで、トントンと執務机を叩いた。軽やかで小気味のよい音が響く。

「《山の種族》との交渉次第ではあるが、充分勝算はある」
 アレクロスは姫の顔をじっと見ている。
「水を差すようではございますが、もしも《山の種族》が断ってきたらいかがなさいますか」
と、グレイトリア姫。
「大丈夫だ。彼らは断りはしない」
 アレクロスは断言した。そう言えるだけの根拠があった。

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