ウィルトンズサーガ第3作目【厳然たる事実に立ち向かえ】『深夜の慟哭』第67話
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陽炎は消え失せはしなかった。美青年ヴァンパイアが古魔術の力で照らし出した灯りにも、陽炎はただその揺らめきを見せ続けていた。
「何があったのでしょうか? まさかブルーリアさんの魔法が暴走した、なんてことは?」
「分からない。私も妖精の使う魔法には詳しくはないのだ」
アントニーは首を横に振った。従者を安心させてやりたくはあったが、嘘は言えない。
「ウィルトン?」
次にアントニーは、大きな声で盟友の名を呼んだ。返事はない。少なくとも聞こえはしなかった。
「どうしたらいいのでしょうか?」
「このような陽炎は、遥か南の灼熱の砂漠地帯にしか現れないと聞く。しかしここは暑くはない。この陽炎は、何処から来たのだろう」
ロランに訊いても分かるまいが、独り言のように言わずにはいられなかった。
「レドニスのような敵が、近くにいるのでしょうか?」
「そうかも知れない」
ウィルトンの事もブルーリアの事も心配ではあったが、何処から探していいかも分からない。
「ブルーリアの魔法の暴走か」
人間の肉体を得たばかりの従者にそう告げながら、陽炎の中を歩く。慎重に、まるで足音を立てずに。ブルーリアの描いた魔法円は、まだ残っていた。
ロランはもちろん、魔法円の外に今はいるが、主を制して、
「僕が入ります」
と言った。
陽炎のせいで何もかもがぼやけて見える。空気が歪んで、視界を妨げるように。魔法円の中もよくは見えない。二人がいるのかも、分かりはしなかった。
「陽炎は上空にまで広がっているのか、もしそうでなければ飛んで上から見てみたいが、あの魔術は我が力を消耗する。今ここで、あまりに疲れてはまずいだろう」
と、その時、魔法円の一部が破れた。地面に描かれた魔法円が。
アントニーは、眼前に丸い石の塊を取り出した。魔術の働きである。それをゆっくりと魔法円の中に向かって進める。宙を漂って、丸い、アントニーの握りこぶしくらいの石は、真っ直ぐに魔法円の中心に飛んでゆく。
「これを勢いよくぶつければ、火炎や氷結にも劣らぬ武器として働くのだが」
今のところ、敵はいない。現れたなら、即座に石をぶつけねばならない。
と、その時、
「待て、ぶつけるんじゃないぞ」
円のなかから声がした。盟友たるウィルトンの声である。
「ウィルトン様! いかがなさいました? ブルーリアさんは?」
「ブルーリアが? いなくなったのか」
「魔法円の中にいないのですか」
「たぶんな。だけど、この……陽炎、なのか? ぼやけているせいでよく見えない」
陽炎は揺らめき続けた。絶えることのない、仄かな揺らめき。ブルーリアは、どうしたのだろうか? アントニーは、案じた。彼は今、心から彼女の身を案じていた。
「ブルーリア?」
大きな声で呼び掛ける。魔術で魔術円の中の宙に浮かべた石は、陽炎の中で、その黒に近い灰色の姿を見せていた。
「ブルーリアにぶつけるなよ」
「そんな事はしませんよ。彼女の居場所を探るだけです。このまま、魔法円の中に入るのは、危険かも知れませんからね」
「魔法の力の暴走か? あれだけの事をやったんだ。あり得るな」
「ブルーリアさん!」
ロランが叫んだ。
「一つ思ったのですが、これがブルーリアさんの心の光景って事はありませんか? だってレドニスを倒した後には、この辺りも、洞窟の中も、実に美しい場所になったのですから」
アントニーは頷いた。四百年もの間、ずっと側にいてくれた忠実な従者に優しく微笑み掛ける。同時に、彼の不安をまぎらわそうともしていた。
「あるいは、他の妖精が近くにいて、その心象風景が影響している、のかも知れませんね」
「他の妖精か。またレドニスみたいな奴なのか」
ウィルトンは魔槍の柄を強く握った。庶民の戦士が持つに似つかわしい物、素朴な茶褐色の硬い木製の柄に、銀色の穂先が付いている。穂先は、燻されたような鈍い輝きをひらめかせていた。
辺りには清澄な空気が漂っている。レドニスを倒す前には、感じられなかった澄んだ空気の流れだ。まるで真夏の遥か南国の地のような陽炎を見せながら、それでもなお、空気は澄んでいた。
「レドニスのような、とは私には思えません」
アントニーは首を横に振った。
「僕も……もっと善良な妖精だと思います。ブルーリアさんでなければ、他の妖精の想いでこうなったのなら、きっとその妖精は、善良な妖精ですよ」
「ま、ブルーリアも、レドニスを倒して心が晴れるまでは、ああだったからな。陽炎程度なら、大した事ないさ。それはともかく、ブルーリアを探そう」
「そう言えば、あなたは何故魔法円の中にいたのですか?」
「さあ? いつの間にか、だ。陽炎の中を歩いていた。魔法円に何かあると思ってな」
「やれやれ。何の確証もなく、足を踏み入れるのは危険ですよ」
「まあ、そう言うな。魔法円から、女の声がしたからな。ブルーリアかは分からないが」
「声が?」
「そうだ。お前は聞かなかったのか」
「いいえ、何も」
アントニーは従者を見た。
「僕も何も」
だが、次には三人の耳に聴こえてきた。それは女の声だったが、ブルーリアではなかった。
続く