【和風ファンタジー】海神の社 第十三話【誰かを守れる人間になれ】
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その時、誰も気がついてはいなかったが、希咲の庭の土蔵に異変が起きていた。土葬にはごく小さな明り取り窓がある。鉄格子がはめられ、内側から木戸が閉められている。その木戸が今、開いた。
実咲の身体は蛇のように細長く伸び、鉄格子の間からするすると出てきた。
「やれやれ。ようやく出られたよ。兄も僕には甘かったらしい。呪縛の力が弱すぎる」
壁を伝って地面に降りると、実咲は元の身体に戻った。正確には、首から下にある無数の濁った黄色い目はそのままだ。今は濃い紫の着物に隠れている。
実咲は兄の屋敷、兄の自室がある辺りを見つめた。
「兄さん、どうして僕を認めてくれないんだ。僕はこの世界のため、兄さんのために」
兄の希咲と変わらぬ美しく端整な顔立ちには、ただ一つ絶対に兄とは違うものがある。妄執に取り憑かれた目だ。目の色も淡い紫で、澄んだ藍色の目をした希咲とは違っていた。
黒ではない色彩の目は、時折華族には現れる。その多くは依り代としての大きな力を持って生まれた者だが、全員が自分の能力を上手く使いこなせるわけではない。
強力な武器は使い手次第なのだ。ただ切れ味の良い太刀だけでなく、使い手の力量が大切だ。依り代の力も、それと同じだった。
「兄さんの気配がする。まだ起きているのか。いや、もう一人誰かいる」
実咲はその妄執に満ちた目で闇を見通しながら呟《つぶや》いた。
希咲はそんな事態を知らずにうつらうつらと半分夢の中にいた。座布団を枕代わりに、鷹見の前で横たわっている。
「希咲様、もうお休みください。俺も帰ります」
和御魂の力で鷹見にはこれまでになく活力が与えられたが、希咲は疲れ切ってしまったようだった。鷹見としては、これ以上続けてもらうには忍びない。
「いや、いい。しばらく休めば大丈夫だ。私も、お前が元気になった姿を早く見たいのだよ」
「希咲様……」
鷹見は、目を閉じて横になった主を見つめる。端麗な面立ちには、明らかな疲労の色がある。
「希咲様、やはり俺は帰ります」
「いや、泊まっていってくれ。もう夜は遅い。この客間の押入れにある布団を出してくれればいい」
「ご配慮、ありがたく存じます」
鷹見は自分で布団を出した。布団の上には、寝間着となる白い着物もある。しかし、主の前で着替えて寝るのも失礼だと思い、布団のかたわらで、希咲が目を開けるのを待った。
「希咲様、このままでは希咲様も俺も手古名に叱られましょう。どうかお休みくださいませ。俺はすでにかなり元気になりました」
希咲は起き上がり、鷹見の目を見つめた。
「私は大丈夫だ。お前が休みたいならそうしても構わない」
「では休ませていただきます」
鷹見は頭を下げる。
「ではお休み。私は寝所で休む。また明日に」
「はい。今晩は、真にありがとうございました」
希咲は立ち上がり、障子戸を開けて客間から出ていった。
鷹見は、障子紙の向こうに透けて見える主の姿が完全に見えなくなるまで正座のままでいた。
見えなくなると真鶴の作った明かり石に陶器の蓋をかぶせ、辺りを暗闇にした。
主従が眠りに就いて一刻が過ぎた。真夜中、客間の木戸が外側から開けられた。風と光を通すための窓の木戸だ。それは障子を開けて入ってきた。長い胴体、大蛇に人間の首だ。檜の板張りの床に降り立つと、人間の姿となった。
顔立ちは見目麗しく、体つきも端整で、兄の希咲と変わらぬ美形ぶりだ。いつの間にか現れた濃紫の衣服の下には、土蔵の中にいた時と変わらぬ濁った黄色い目玉が無数にあるのだが、その目には何も見えてはいない。
実咲は布団に大の字になっている鷹見を、思い切り容赦なく踏みつけにしようとした。
踏まれる寸前に気配を感じて鷹見は目を覚ました。とっさに実咲の足を両手でつかみ、上にすくい上げる。実咲は振り切って逃れた。
「あ、貴方は、実咲様、なのですか」
愕然としている兄の配下を前にして、実咲は冷ややかに吐き捨てる。
「お前は田野辺のように下級の武門の出ですらもない癖に、兄上に馴れ馴れしくするでない」
田野辺は宮津湖の姓だ。そう、東も宮津湖も武門の出だが、自分だけが違う。
「馴れ馴れしくしたつもりはございません」
鷹見ははっきりと言った。希咲の弟が相手であろうとも、これは言っておかねばならぬと、そう思った。それにしてもどうやって土蔵から出てきたのだろうかと思う。
「黙れ、無礼者!」
実咲は激しく怒鳴りつけた。希咲が目覚めていてこの場を目にしたとしても、鷹見を無礼とは思わない。宮津湖でさえもそうは感じない。実咲にとっては違う。自分に逆らう者は皆無礼な奴なのだ。
実咲が手を前に突き出した。その掌《てのひら》と甲にも黄色い濁った目がぎょろぎょろしている。
突き出された手から、空気の流れが鋭く飛んだ。鎌《かま》を手にした鼬《いたち》が異様な目つきで宙を飛びかかって来る。
鷹見は躱《かわ》し切れなかった。腕に刃《やいば》で切られた痛みが走る。風の『荒の変わり身』鎌鼬《かまいたち》だ。
実咲様は、この世界から全ての荒御魂を無くしたいのではなかったのか?
鷹見の胸の内に疑念が走る。
主の弟君に刃を向けるは無礼であろうが、今はそんなことを言っていられない。実咲からはただならぬ殺気を感じる。とても和御魂で世と人心を満たし、安らかなる世界にしようとしている者とは思えないほどだ。
残念なことに、弓だけでなく太刀も玄関の側にある控えの間に置いてある。当然だが、武器を携えて屋敷の奥には入れないからだ。例え自分でも、あるいは宮津湖であっても。
それは古来からのしきたりであり、信頼の有無の問題ではない。のではあるが、この時にはそのしきたりを恨めしく思った。
──和御魂だけを求めるほどに、ますます弟は荒御魂に侵食されてゆく。
希咲の言葉が脳裏によみがえる。まだ夜は静かで、希咲はこの事態を何も知らずに眠り続けていた。