「ため息は決してやらない」について思考を巡らせてみる
いつも通り𝕏にはっついていた時のこと。
「ため息は決してやらない」≠「ため息を我慢しなさい」
「ため息は決してやらない」というのは、
「ため息つかなきゃいけないくらい自分を消耗させる必要は無い」
「自分を大切にしなさい」
であるのではないかというポストを見た。
この解釈について、いろいろ思考を巡らせてみたくなったので以下にまとめる
提唱者への共感ポイント
社会人としての自我が未形成の頃に、慣れない業務や切羽詰まった状態で、意外と逃避したくなるようなタイミングが自分はあったな〜と思い、そういった際の思考プロセスとして、自己保身のために、この解釈はかなり有効だよなと感じた。
実際自分はこの歌詞ではないかもしれないけど、スマで言うと頑張らなくてもええねんで、あんま気にしてもしょうがないんやでマインドを持っていた。
いろいろ思い悩む時期、何かを始めて慣れない時期に意外な形でこういった歌詞を解釈する、結構あると思う。
「ため息は決してやらない」への持論
さて、ここはただの持論だが、社会に出て5年ぐらい経つと、「ため息は決してやらない」なんてまあ当たり前よなといった思考プロセスに自分はなった。
というのも社会に出て労働の対価として給与をもらい、それなりに転職することの自由や権利(実際に行使した)がいまはある。
また、自分で選んだ選択肢に対してため息をするとか、自己否定に近いものになるなという考えがあったり、まあそれでも確かにネガったりすることもある。
そこで感情をそのままにするでなく、「なぜ今ネガティブを感じたのか、これは言語化、成長のチャンス」という思考プロセスに変わってきた。
だから、「ため息してるぐらいなら、なぜその事象がため息を感じるほどネガティブなのか?」「こういったパターン蓄積をして、いくつか解が準備できると、へんなことで悩まなくなるな」すぐに解決の思考に走ることが多いなって今は思う。
ブスにならない哲学の実生活のキャラクター
さて、歌詞に着眼してみる。
読んでいくとまあ不可解、主語述語なさすぎてこの歌詞を考えるとため息でそうだ笑
つんくさんのライナーノーツはあるんだっけーと思いながら、あえて恥晒しをしよう。
まとめると、僕のイメージでは主人公夢見る15歳ぐらいの女の子で、いやいやあなたまだそんな年じゃないでしょという年齢ながらも、「恋愛下手で〜」とかいいつつ、愛情が足りないことに対して、決して言わない、ため息やらないと言いつつも、どこかで我慢している自分がいる。
クラスの男の子を親友に取られてしまった?こんなことで儚く砕けた恋の呪縛の過去?
それはさておき、後悔せず切り替えよう、思い詰めすぎず行こうと思いながらも何か起こってしまいそうな不運とか容姿、性格に対してとやかく言われることは絶対に認めたくない、私は絶対幸せになるんだ、なんかそういった強気の姿勢を感じた。