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かすみを食べて生きる96:自宅リハビリと子育て
脳梗塞 発症4か月頃:退院後1か月
脳梗塞(ワレンベルグ症候群)の後遺症のため、嚥下ができなくなりリハビリ入院。
水1滴も飲みこめないところから、3か月のリハビリを経てなんとか3食普通の食事を食べることができるようになった。
その他の後遺症は右半身の感覚異常やしびれ。発症後しばらくベッド上安静の時期があり、リハビリで車いす、歩行器を経て、1か月かけて自立歩行に戻った。
急性期病院で約20日。転院したリハビリ病院で2か月と10日程。のべ3か月の入院生活を経て退院した。
自宅リハビリと子育て、両立はできるのか。
『かすみを食べて生きる 序文と目次』
<発症3か月と1日目:リハビリ病院3か月目⑪
発症数年後>
続、嚥下自主リハビリ
退院はしたけれど、嚥下の状態は不完全。
のどの左側に麻痺があるため食事の際は首を軽く左に向けて、のどの右側に飲食物を通さなければならない。
引き続き、家で自主リハビリが必要。
1か月後、嚥下外来で首を左に向けずに飲み込みができるようになっているかどうかを確かめる、嚥下造影検査を受けることになっていた。
しかし幼児のいる日常生活は、入院生活と比較して格段にハードモード。
そもそも人と一緒に食事をすることが久しぶり。
左を向かないと飲みこみができない状態なので、私は必ず子どもの右側に座って食事をするようにしている。
そうすれば確実に左を向いて嚥下ができる。
話しをしたり、子どもが食べることをフォローしながら食べると、自分の食事は驚くほど進まない。
子どもは幼児なので、おかずは嚥下的に安全なものが多い。
そこでおかずは家族と同じものにして、私だけご飯を軟飯にした。
同じものを食べておいしいねと言い合った。
夫と子どもが食べ終わっても私の食事は終わらない。
仕方ないので居残りさせてもらい食事をとると、食後のはみがきを夫に任せることになり、子どもが「おかあちゃんがいい!」と言ってぐずりだす。
夕食を子どもと食べる時私のご飯は少量にして、子どもが寝た後にゆっくり食べる形にしたかったけど、右半身の感覚異常でひどく疲れるため夕食の時間帯が私の活動限界。
入院中、子どもがさみしかったことはわかる。
だからこそ幼稚園から帰った後はできる限り相手をしている。
でも夕食時にはもう私の体力が残っていない。
ぐずるのが続くとこちらも耐えられなくなり怒ってしまう。
不思議なことに、怒った後は食べ物を飲みこめなくなる。
気持ちが落ち着いたと思って食べてもひどくむせる。
この生活で自主リハビリをするのは無理。
わかっていたけど、家では入院時ほどリハビリはできない。
しばらくこの状態が続き、平日は子どもが幼稚園に行っている間にたくさん食べて、夕食は作りながら少しずつ食べ、食卓では量を減らして一緒に食べることで食事量を確保した。
また退院後3週間は自主リハビリはあきらめて、食事を摂る事がリハビリと考えた。
私は変われなかった
家に帰ったら子どもにいっぱい甘えさせようと思っていたのに、退院後数日で叱り倒してしまうことが出てきた。
これでは私は帰ってこない方がよかったのではないか。
心にもやもやが溜まってしんどい時、スマホのメモにその感情をざらざらと書いて吐き出すことがある。
退院後も子どもの対応に行き詰ってメモを打とうとしたときに、脳梗塞発症少し前のメモが目に留まった。
子育てをうまくできていない
子どもにどう対応したらいいかわからない時がある
こう言ってはだめだと思う言葉を子どもに言ってしまう
「そんなこともできないなんてはずかしい」
「食べたくないならもう食べなくていい」
死にたい
私の対応の仕方が悪いから子どもがおかしくなる
私がいない方がいい
私が子どもに悪影響を与えている
私がいない方が子どもにとってまし
死にたい死にたい
私が不完全だから子どもも満足に育てられない
苦しい、体がうまく動かない、だるい
うるさい
静かなところに行きたい
一人になりたい
気兼ねなく一人になりたい
子どもに嫌われたくない
息が苦しい
手足が痺れる
これもただ怠けているだけかもしれない
誰にも助けを求められない
きっと嫌われている
死にたい死にたい死にたい
胃が気持ち悪い
頭がうまく回らない
足がぞわぞわする
体がだるい
一人になりたい
このメモを見て血の気が引いた。
状況は何一つ変わっていない。
大病をすると人生観が変わって悟りを開いたようになって前向きに生きていける、なんてことはなかった。
むしろ私の身体は部分的に不自由が出て、一日の体力限界が短くなっている。
私は変われなかった。
子どもを前にして、同じように悩んでいる。
不完全な私がいない方が、この子はまっとうに生きていけるんじゃないか。
それでも今日も呼ばれまくる。
「おかあちゃん!おかあちゃん!おかあちゃん見て!!」
この子にはまだ「おかあちゃん」が必要だ。
そして私はまだ生きている。
入院中の3か月、子どもに会いたかった。
とても、とても、とても会いたかった。
子どもが「おかあちゃん」と呼んでくれるうちは、私は破れかぶれでも「おかあちゃん」をやらなくては。
うまくできなくてまた怒ってしまうこともあるだろうけど、それでも、なんとかやっていくしかない。
ーー振り返って
発症前のメモを見た時、ループもののホラーでも見たような気持ちになりました。
何も変わっていない。むしろ状況は悪くなっている。
完全に忘れていたわけではないのですが、生々しい負の感情はメモにして閉じ込めて、日々の生活を送っていました。
発症前、新型コロナウィルスの感染対策で外に遊びにも行けず、子どもと家で二人きりになることが増えました。
子どもと対峙し続けることがしんどくても、交代要員などいない状況でした。
夫はよく子どもの相手をしてくれますが日中は仕事なので、その時ばかりは頼れませんでした。
そしてリハビリ病院退院後も、幼稚園から帰った後の時間、同じように密室二人きり状態が起きました。
すぐに追い詰められました。
それでもなんとか、やっていくしかありませんでした。
数年が経った今、子どもは小学生です。
何をするにも一緒にいなければならなかったあの頃に比べ、子ども一人で外出する機会も増えました。
子どもと一緒にいる時間も減り、私が一人になれる時間も増えました。
そしてやっと、この物語に手をつけることができました。