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③Mikipedia:科学少女ミキのお悩み相談室


【第3章】科学少女ミキのお悩み相談室(ランチ編)


 お昼。

 中庭のベンチ。

 木陰で涼むわたしとアンナ。

 日差しと木漏れ日。葉擦れの音で涼をとる。木陰は日向よりも少しだけ涼しい。

 わたしの頭上には、てっぺんに差しかかったお日様が1つ。うんと景気の良い太陽が地上を明るく照らしている。まるで、この世の不景気なんて忘れてしまったかのよう。今日の太陽の晴れ具合、日本経済にも見習ってほしーね?

 わたしのすぐ隣に座るアンナは、ひざの上にお弁当を広げている。こぢんまりとした薄桃色のお弁当箱だった。

「今日、お外いい天気だね〜」とアンナが言った。「ぽかぽか陽気って感じ。日向に出ちゃうと少し暑いけどー」

「木陰でちょうどいいくらいだね」

「ねー、ほんとぉ」

 アンナは足をパタつかせながら、お箸でつまんだご飯を口に運んだ。あらま、お行儀が悪くってよー?

 わたしは木陰から空を覗いた。

 夏めく空と綿めいた雲。枝葉の合間から清々とした青がチラリ。終わり知らずの空がどこまでも続いている。

 わた雲とそよ風。わたあめのような入道雲は、あいかわらず夏を映し出す。夏の形を転写した雲が空を泳いだあと、後ろから追いかけるように風が流れた。わたしの頭の上では季節のmRNAが夏を翻訳している。

 今日は風があって涼しい。

 お出かけ日和。お外でご飯を食べるのが気持ちいい陽気。ついピクニックにでも行きたくなっちゃうね。

 まだ夏本番というには早いけど、もう日中は日が高くなってきた。冬の空とは違って天頂てんちょう付近をくるくるまわるお天道てんとうさま。まだ周回途中にあるお日様が地上を見下ろしてる。それでも地球は回っておりますゆえ。

「はやく夏になんないかなぁ。プールが待ち遠しいよ〜」

 アンナは渋い顔を浮かべつつ、もう一度ごはんを口に運んだ。先ほどよりはおさまっているものの、相変わらず足をパタパタさせている。あらま、お行儀がわるくってよー?

「もうじき海開きだね」と、わたしは言った「いちおう、この時期でも温水プールなら行けるよ?」

「んー、そうだけどぉ〜……」

 アンナは低めの声でうなりながら、納得いかなそうな表情を浮かべた。

「温水プールってさぁ、なんか違うじゃーん?」とアンナが言った。「夏のあっつい日にプールに入るのがいいんだよねー。冷たぁ〜い水浴びて身も心もリフレッシュ、みたいな?」

「まぁ、わかるけど……」

「あたし、冬だったらプールより温泉かなー。あ、お風呂の中で泳いじゃダメだよぉ?」

「いや、わかってるけど……」

 アンナからクギを刺されて、わたしは苦笑いを浮かべた。アンナ、わたしのこと小っちゃい子だと思ってなーい?

 当のアンナは楽しそうに笑っている。

 わたしは朗らかに笑う友人の姿を横目に、ひざの上に広げたお弁当に箸を伸ばした。引き続きランチタイム。

 冷凍コロッケにプチトマト。ケチャップがかかった玉子焼き。白米の真ん中には防腐効果を期待した梅干しが1つ。いくつかのブロックに区分けされたお弁当箱には、今朝のうちに詰めたお惣菜が所狭しと並んでいる。

 わたしはプチトマトを箸でつかんで、招き入れるかのように口へと運んだ。

 口の中でトマトを噛むと、ぷちゅっと汁があふれた。わたしの舌の上で瑞々しい液汁が滲み出すように広がっていく。プチトマトおいしい。わたしトマト好き。

「あぁー、うちの学校も給食だったらなぁ。わざわざ朝お弁当つくんないで済むのにー」とアンナが言った。「エミちゃんが通ってる学校、高等部も給食あるんだって。あたしらの学校も給食制にして欲しーよねぇ?」

「そ、そだね……」

 とつぜんアンナから話を振られて、わたしは途端にうろたえてしまう。戸惑いめいた音が辺りに溶け出していった。

 えぇっとぉ、エミちゃんって誰だろ……?

 話の流れ的にアンナの友だちっぽいけど、具体的な顔がぜんっぜん浮かんでこない。わ、わたしも知ってる人かなぁ?

 いっそ「エミちゃんって?」って聞きたいけど、なんとなく聞いちゃいけないような雰囲気ある。友だちの名前あらためて聞くのって、相手に対して失礼な感じするもんね(※すでに失礼)。うっかり地雷ふんじゃわないか危ぶまれる今日この頃でございますわぁ。

 あぁ、わたしの恨めしき記憶力ぅ〜!

 わたしは戸惑い混じりに相槌を打ったあと、なにかを誤魔化すようにご飯を口に運んだ。噛むたびに口の中で白米の素朴な甘味が広がる。

 わたしが黙々と食事の手を進めていると、アンナがコチラの顔をのぞき込んできた。斜め下からこんにちは。

「ミキ、いま『エミちゃんって誰だろ?』って思ったでしょおー」

 どきっ。

「えっ」

 おおきな鼓動とともに身体がこわばった。

 ばくばくと鼓動が胸を打つ。すっかりアンナに心を見透かされてしまい、わたしの心臓はドキっと大きく飛び跳ねた。

「な、なんで分かっ……」

 やっと絞り出した自分の声は、思っていたより情けなかった。

「あは。やっぱそうなんだぁ」とアンナが言った。「ミキってホント他人の名前おぼえるのニガテだよねー。いろんなこと知ってて物知りなのにね?」

「ご、ごめん……」

 アンナがご機嫌そうに笑っているのとは反対に、わたしは情けなさと申し訳なさでしょげ込んだ。しょぼん。

 か、カマかけられたぁ。

 アンナ、意外と策士さくしだった。わたし今まで知らなかったよ。メンタリスト顔負けの察知力だね?

 友人の意外な一面を見て、わたしは少しだけ驚いた。さらっとカマかけられたことにも驚いた。いまだに顔が浮かばないエミちゃんごめんなさい。アンバランス記憶力でごめんなさい。

 自分の物覚えの悪さが恨めしい。

 数学の公式は結構すんなり覚えられても、ひとの名前は覚えられない罪深き脳みそ。きっと中世ヨーロッパだったら極刑モノの罪だぞぉー?(※偏見)

 アンナは特に気にしたようすもなく食事の手を進めた。彼女の口もとには薄っすらと笑みが浮かんでいる。

 わたしもアンナに倣うようにランチを食べ進めた。お箸でひょいっと摘んだおかずを口の中に放り込む。すかさず少量の白米を口に運ぶと、おかずの塩っけが丁度よく薄れた。焼き鮭おいしい。わたしシャケ好き。

 ふと、わたしは隣から視線を感じた。

 気配に誘われるように顔を横に向けると、アンナがコチラを向いているのが見えた。

「どうかした?」

 わたしはコチラの膝元をジッと見つめるアンナに訊ねた。

「……ミートボールおいしそう」

 わたしの膝元にあるお弁当に、アンナの視線が注がれている。

 狙いすましたような眼差し。今晩の獲物をロックオンするメスライオンよろしく、アンナはミートボールを狙っているみたいだった。

 わたしはミートボールをお箸でひょいっと拾い上げた。

「……食べる?」

 お昼時の陽の光に照らされて、ソースの付いたミートボールがキラリときらめいた。まるで、太陽のソースがかかってるみたい。

 こちらの肉玉を見定めるやいなや、アンナはにぱっと笑顔を浮かべた。

「食べるっ」

 わたしはアンナの口もとにミートボールを運んであげた。

 ミートボールにぱくっとパクついたあと、アンナはもにゅもにゅっと口を動かした。彼女の満足そうな表情が辺りに溶け出す。まるで、景色まで一緒に笑ってるみたいだった。

「んむ、おいひぃ〜」とアンナは言った。「ミキ、やっぱり料理上手だねぇ〜」
「それ、スーパーで買った冷凍食品だよ」

「あは。解凍したら実質手作りみたいなもんじゃーん?」

「や、その理屈はどうなんだろ……」

 アンナは自分が口にしたおかずが冷凍食品かどうかは関係ないようだった。満足そうにミートボールをほおばる女の図。

 だいぶ無理やりな理屈の気がするけど。

 アンナの理屈(屁理屈?)でいくと、スーパーで買ったお惣菜も「自分で買ってきたから実質手作り」ってことになりそう。

 お子さんのお弁当づくりで毎朝いそがしいママさんたちは喜びそうだけど、そもそもの『手作り』の定義が玉虫色のごとく曖昧になっちゃいそうだね。やたらと言葉の定義にうるさい研究者が黙ってないはずだよ(※偏見)。まぁ、知らないけど。

 や、ほんっと知らないけどね?

 今日も今日とて、わたしは適当なことを考えるのに余念がない。

 かたや、アンナは美味しそうに肉玉を頬張っている。どうしてか食事中のハムスターの姿が脳裏をよぎった。なんでだろーね?

 わたしがあげたミートボールを飲み込んだあとで、アンナは自分の膝元にあるお弁当に箸を伸ばした。

「じゃあ、あたしからもミキにお返し〜」

 アンナは箸で掴んだひと口サイズのハンバーグをコチラに向けてきた。ハンバーグにかかったソースが食欲をそそる色をしている。

「はい、あーん?」

 ご丁寧に空いた手をお皿がわりにしたアンナは、お箸で挟んだハンバーグをコチラに差し出した。食事マナーにうるさいマナー講師に注意されちゃいそうな案件だね(※偏見)。

「あ、あーん……」

 わたしは促されるがままハンバーグにパクついた。

 アンナからもらった肉塊を咀嚼そしゃくすると、わたしの口の中で肉の旨みが広がった。もにゅもにゅ、もにゅもにゅ(注:咀嚼音)。

「おいし?」

 わたしはアンナからの問いかけに頷いて答えた。肯定を示すジェスチャー。

「もぃひぃ」

「よかったぁ。ミキ、ハンバーグ好きだもんねー?」 

 わたしはハンバーグをもごもごと咀嚼しながら無言で頷いた。ハンバーグソースの甘みが舌の上でころころと転がっている。

 なんか餌付けされてるみたい。

 お互いにおかず分け合ったから両者あおいこのはずなんだけど、わたしのときだけ餌付けされた犬みたいになるのは何でだろう?

 きっと、アンナが世話焼きさんだから。

 飼育員よろしくなアンナのブリーダーりょくが高いから、わたしが餌付けされたみたいになってるんだろーね。絶対そうに決まってる。

 うん、そういうことにしとこーっと。

 わたしは目の前の問題を自己解決したあと、膝元に置かれたお弁当箱に視線を落とした。白米に狙いを定める女子高生の図。白い悪魔をロックオン。

「あ、ミキ。ここソース付いてる」

「えっ」

 わたしはお目当ての白米に箸を付ける前に、アンナの声に誘われてとなりに顔を向けた。

 アンナがジェスチャーで自分の口元を指し示している。きっと彼女が指で指し示したあたりにソースが付いているのだと思った。すぐさま、わたしはポケットからハンカチを取り出そうと——

「あ、そのまま。ちょっと待っててね〜」

 ポケットに伸びたわたしの右手は、アンナの明るい声にさえぎられた。

 制止を求められたわたしはピタッと動きを止めた。やがてコチラの口もとにアンナの手がにゅっと伸びてきた。彼女の手には夏の空によく似合う水色のハンカチが握られている。

 やがてハンカチが口もとに触れた。

 ふわっと香る透きとおった匂い。わたしの鼻先を石けんの清潔な香りがかすめていった。だ、DOW〇Yダウ〇ーかなぁ?

「ん、おっけー」

 わたしの口の端についたケチャップを、アンナがハンカチで拭きとってくれた。ほほえみという副菜を傍らに添えて。

 きゅんっ。

 あ、やっば。今ちょっぴりトキめいちゃったかも。

 わたしの口元に付いたケチャップを拭ったあと、アンナは使い終わったハンカチを折りたたんだ。まるで、折り紙を四つ折りにするかのように。

「あ、ありがと……」

 とたんにアンナと目を合わせるのが恥ずかしくなり、わたしは何かから逃げるかのように視線を逸らした。ふいっと。

「いーえー、どういたしまして〜」

 わたしは盗み見るようにアンナのほうを見た。

 視界の端に映り込むアンナは、いつも通りの顔で笑っている。わたしが毎日のように見てる、ひまわりみたいな笑顔だった。

 なんか、くすぐったい。

 ちょっぴりムズムズする。まるで、心の奥まったところが赤くかぶれちゃったみたい。

 かきたくてもけない。搔こうにもかゆいところに手が届かない。かゆみを引き起こす心のヒスタミンが分泌されて、中継地ちゅうけいち視床ししょうを経由して黒質こくしつしま皮質ひしつ投射とうしゃした。脳を構成する大脳だいのう皮質ひしつ大脳だいのうていかくもろもろが、かゆみシグナルをピコンっと受信した気がした。たぶん気のせい。

 アンナは相変わらずご機嫌そうに笑っている。

 見合う言葉が何ひとつ見つからなくて、わたしは逃げるように視線を落とした。じぶんの膝元に置かれているお弁当箱が視界に映り込んだ。

 ひゅうっと吹き抜けるそよ風。

 気持ちのいい風が中庭を吹き抜け、わずかばかりの静寂を連れてきた。ぷわんと香る夏の始まりが辺りに溶け出した。

 青嵐はもう近い。青葉を吹き飛ばす風がもうすぐやって来る。わたしの頭の上にある青々とした木々も、じきに夏の風に揺られることになるはず。青が青を吹き焦がす季節はもう近い。

 わたしの好きな季節。

 わたしとアンナの好きな季節。ふいに駆け出したくなるのは、きっと夏めいた空が広いから。そうに決まってる。

「あ、いたいた。アンナぁ〜」

 わたしが頭上に広がる空を眺めていると、中庭の向こうからアンナを呼ぶ声がした。

 アンナとわたしは声がするほうへと顔を向けた。視線の先では見知らぬ女子が2人、こちらに向かって手を振っている。アンナの知り合いの子かな?

「あ、エナちゃん。サヤカちゃんも〜」

 こちらへと近づいてくる女の子ふたりは、エナちゃんとサヤカちゃんと言うらしい。新情報をキャッチ。

 どっちがエナちゃんでどっちがサヤカちゃんかは分からない。そもそも、わたしみたいに顔の認識が下手な人間には難しい問題。意識のハード・プロブレムも顔負けの超難問なのです。

「ごめんねー、ごはん食べてるとこ。ミキちゃんもゴメンね?」

「う、うぅん。大丈夫……」

 サヤカちゃん(仮)がコチラの食事情を気遣ってくれた。

 この不肖わてくしめ、同級生の気遣いに対して(仮)で返すという恩仇おんあだっぷりでございます。あぁん、自分の顔認識スキルの低さが憎いよぉ〜っ。

「あたしも全然だいじょぶぅ。どうしたのー?」

「や、アンナこないだ『たまに校庭でゴハン食べてる』って言ってたからさー」とサヤカちゃん(仮)が言った。「うちら教室でヒマだし、ちょっと遊びに行ったげよっかなーと思って。ありがたく思え〜?」

「あは、そうなんだぁ。あたし嬉し過ぎて涙でそう〜」

「ウソつけぇ。ダム決壊しそうな気配ないんだけどー?」

「あたしの心のダム、ひとよりも頑丈にできてるからぁ〜」

「んふ、ウケる。心のダムて」

 アンナは女の子ふたりと楽しそうに冗談を言い合っている。

 エナちゃんとサヤカちゃんは自然な動きでベンチに座った。わたしとアンナを挟み込むように座る2人の女の子たち。人間サンドイッチ(?)。

「あ、ごめんね。ふつーに座っちゃってー」

「うちら、ごはんのジャマじゃなーい?」

 サヤカちゃんとエナちゃんは続けざまにコチラを気遣った。2人の人柄が垣間見えるような気がした。

「あたしは全然だよー。気にしないでー?」

「わ、わたしも……」

 わたしはアンナの後に続くように返事をした。

 こちらの言葉を肯定の印と受け取ったようで、女の子ふたりは安心したような顔を浮かべた。

「よかったぁ、ありがと〜」

「ってかさー、このあと数学あるじゃん?」とサヤカ(仮)ちゃんが言った。「まじ時間割ちゃんと考えて欲しーよねぇ。ごはんの後に数学とか眠くなるに決まってんじゃーん?」

「ねー、ほんとぉ。眠たい頭で計算とか無理だも〜ん」

 アンナはサヤカちゃん(仮)の憂鬱に共感しているようだった。持ち前の共感スキルをいかんなく発揮する女の図。

「こないだの数学の時間、サヤカ授業中に白目むいてたからね」とエナちゃん(仮)が言った。「あんときのサヤカの顔、ホントまじ写真に撮っときたかったー。写真アプリで加工してやるし」

「ちょっと、やめてよぉ。どうせ撮るなら良い顔のときにしてー?」

 エナちゃんとサヤカちゃんの会話に混じって、食事を進めるアンナも楽しそうに笑っている。3人ぶんの笑い声がランチ時の中庭に溶け出した。

「サヤカちゃん、おもしろい顔するときあるもんねー。女芸人さん顔負け的な?」

「あんだとぉ〜っ?」

 サヤカちゃんはご飯を頬張るアンナのほっぺたを指先で摘んだ。横に引っ張られたアンナの頬がみょいーんと伸びる。みょいーん。

 アンナの隣に座ったのがエナちゃんで、わたしの隣に座ったのがサヤカちゃん。

 アンナの発言から得られた情報から察するに、わたしの隣に座ったのはサヤカちゃんらしい。あんまり喋ったことない相手だから少しだけ緊張しちゃう。わたしのコミュ力の低さがいかんなく発揮されるの巻。

「あはは、おえごめおえごめん」

 ほっぺたを引っ張られてもなお、アンナは楽しそうに笑っている。

「え、待って。アンナの頬めっちゃ柔らかいんだけど?」

 サヤカちゃんはちょっぴり驚いたような顔をした。アンナの柔らかほっぺが意外だったもよう。

「えー、まじで。アタシのぶんも触っといてー?」

「おっけー、任せとけぇ」

 わたしの隣に座るサナちゃんは、ベンチの反対側に座るサヤカちゃんに「アンナの頬みょいーん」を依頼した。依頼を任されたサヤカちゃんが嬉々としてアンナのほっぺたを引っ張る。みょいーん。

「もぉ、はん食いよぉ〜」

 アンナはサヤカちゃんに制止を求めているようだった。ほっぺた引っ張られてるせいで上手く喋れてないけど。

「あはは、アンナかわいー。いヤツじゃのぅ〜?」

 アンナの制止も聞かず、サヤカちゃんは相変わらず柔らかほっぺにご執心のようす。お殿様のような口調に彼女の執心具合が表れているような気がする。多分ね、たぶん(適当)。

 やがて満足したのか、サヤカちゃんはアンナのほっぺから手を離した。

「うむ、は満足じゃあ」

 サヤカ殿が満足そうな顔を浮かべている。お殿様とは似ても似つかない年相応の女の子らしい表情だった。

「余は不満足じゃあ〜……」

 アンナは引っ張られた頬を手でさすっている。自分のほっぺたを労ってあげる女の図。

 ようやく女の子ふたりの(仮)が取れたころ、アンナたちの雑談も段々と盛り上がってきた。中庭には他に人がいないこともあってか、サヤカちゃんたちの声が辺りによく響く。まるで、コンサートホールに音が反響するかのよう。

 アンナ、ほんと友だち多いなぁ。

 まるでクラスメイトみたいな仲の良さ。エナちゃんたちとはクラス違うはずなのに。

 わたし自身そうじゃないからかな。いろんな人と交流もてる人が少し羨ましい。アンナいっつも誰かと話してるところ見かけるけど、ひょっとして学校中の人みんなと知り合いだったり?

 や、そんなわけないか。

 いくらアンナでも「とっもだち100人、でっきるっかな〜♪」を地でいくわけもなく。心理学者たちが指摘する『弱い紐帯ちゅうたい』も形無しだね。

 友人の明るい横顔に目がくらみそうになる。

 わたしみたいな日陰者にはアンナが眩しいよ。女神のごとき振る舞いだね。太陽神アンナさまぁ〜。

 天照大御神あまてらすおおみかみの再来。

 わたし、お日様の光に当てられて除菌されちゃいそう。殺菌消毒されちゃいそうだよ。

 あぁ、衛生的な香りがする。エチルアルコールのツンとした香りが鼻先をかすめていきます。わたし菌がアンナの滅菌作用で除菌されちゃいそう。

 生命誕生から約40〜35億年もの年月が経った今日この頃、わたしを構成する37兆個の細胞が日光消毒によるネクローシスのせいでエドヴァルド・ムンクも顔負けの断末魔みたいな悲鳴をあげて——

 や、わたし菌類じゃないんだけど。

 生まれてこのかた一度だって、人間やめたことないですけど。絶賛もれなく平均的な(?)女子高生やってるつもりですけどーっ?

 たしかに頭からキノコ生えてそうなくらいジメジメした日陰者かもだけど、べつにアンナという名のお日様の光で紫外線消毒されるわけじゃないから。もし仮に百歩ゆずってわたしが細菌だったとしても、こっちの意見を尊重しないで勝手に滅菌しちゃダメ。

 いくら天上におわすお天道さまと言えど、身勝手なアルコール消毒は許されません。

 なにかとマイノリティの権利保護にうるさい昨今、欧米諸国を中心とした権利団体が黙ってないはず。わたしみたいなキノコにも人権(?)はありまぁ〜す。あれれ、いつの間にかキノコ確定しちゃってなぁい?

 まぁ、それはいいとして。

「……」

 わたしは黙々と食事の手を進めた。

 わたしの目の前では目に見えない言葉の色彩が行き交っている。どれも橙色を帯びた楽しげな声色だった。ぷちゅっと歯で潰したプチトマトの味がやけに薄く感じた。

 お喋りに興じる女子が3人。

 おなじ制服に身を包んだ3つぶんのシルエット。木陰に入ったまま話す2人の女の子と同じように、わたしの隣に座るアンナも楽しそうに笑っている。

「そういやさー、ミキちゃんって結構レアキャラだよね?」

 すぐ隣に座るエナちゃんから話を振られた。どうやら、わたしは彼女の中でレアキャラ認定されているもよう。

「そ、そうかな……?」

 思わず、わたしの口から戸惑いの声がもれた。

「あ、ちょっと分かるわー」とサヤカちゃんが言った。「ミキちゃん、いつも気付いたらいなくなってるもんね。恥ずかしがり屋のネコちゃんみたいな?」

「ねー、だよねぇ。ミキちゃんとこのクラス行ってもあんま見かけないしさー」

 エナちゃんとサヤカちゃんはレアキャラ談義に花を咲かせている。

 話の中心にいるはずの当の本人は戸惑うばかり。わたしのコミュ力の低さがいかんなく発揮されるの巻。なんだか置いてけぼりにされた心地なのですけれど?

 アンナが助け舟を出すかのように口をひらいた。

「違うよぉ、ミキは照れ屋さんなだけなの〜」

 違うよぉ、わたし照れ屋さんじゃないの〜。

 ただ大人数で会話するのが苦手なだけだもん。他人さまのお顔を識別するのが下手なせいで、どう喋っていいのかが分かんないだけだもん。わたし照れ屋さんなわけじゃないからぁ。ほんとだからぁ〜。

「あ、そだ。私、ミキちゃんに聞きたいことあるんだけどー」

 ベンチの向こう側にいるサヤカちゃんが、アンナの横からひょこっと顔を覗かせた。まるで、岩陰から顔を覗かせるウサギのよう。

「う、うん。どんなこと?」

「んっとねぇ、私ここ最近ちょっと悩んでてさー」とサヤカちゃんが言った。「ここ1週間くらい寝つき悪いみたいなんだよねー。ちゃんと寝たいのに夜中まで起きちゃって、結局ベッドの中でもだもだしてるみたいな」

 サヤカちゃんは物憂げな表情を浮かべながら溜め息をついた。ここ最近の夜のことを思って少し憂うつになっているのかもしれない。

「あ、アタシもアタシもー」とエナちゃんが言った。「時々なんだけど、アタシも寝れないときあるんだよねー。季節的なものだったりとか?」

「そうなのかなぁ。おかげで最近ちょっと寝不足ぎみでさぁ〜」

 サヤカちゃんは不満げな表情を浮かべている。彼女の言葉どおり、寝不足が憂うつ感にも表れているようだった。

「んでさぁ、もし寝不足解消する方法とかあったら知りたいんだけど〜」

 アンナの横から顔を覗かせたサヤカちゃんは、ねだるかのようにコチラに答えを求めてきた。

「いちおう、寝付きを良くする方法なら何個かあるけど……」

 わたしは自分の頭の中にある知識に心の手を伸ばした。ぱっと思いついたアイデアをいくつか手で掴み取る。がしっと。

「え、まじでっ?」

 目をキラキラさせたサヤカちゃんに対して、わたしは首を縦に振って肯定の意を示した。

「まず1つに、眠れないときはベッドから離れるといいよ」と、わたしは言った。「寝れないままベッドの上でスマホいじってたりすると、脳が『ベッド=眠れない場所』って認識しちゃうから。普段ってベッドでゴロゴロしながらスマホ触ってたりする?」

「ぅわぁ、まさになんだけどー。私、いつも寝っ転がりながらスマホぽちぽちしてる」

 サヤカちゃんは図星と言わんばかりに顔をしかめた。どうやら、彼女は寝っ転がりながらスマホぽちぽち勢だったもよう。や、何その勢力?

 まぁ、それはいいとして。

「もし夜あんまり眠れないようだったら、ベッドからおりて過ごすといいと思う」と、わたしは言った。「できれば、夕方〜夜にかけてはアンバーグラスかけるといいかも。スマホのブルーライトほぼほぼカットしてくれるから」

「あ、アタシそれ聞いたことあるかもー」とエナちゃんが返した。「ブルーライトって睡眠によくないんだってね。スマホとかパソコンから出てる光らしーけど」

「そうそう」

 エナちゃんは少なからず、ブルーライトの悪影響を知っているらしかった。スマホの光のデメリットは有名でございますものねー?

 前に論文で読んだことがある。

 スマホのブルーライト浴びていいのは、せいぜい「夕方ごろまで」なんだって。

 夕方〜夜にかけて強い光を浴びちゃうと、脳の睡眠サイクルがズレちゃうんだとか。逆に、アンバーグラスの利用は入眠時間を平均7分ほど早めてくれるらしい。

 じっさいに、睡眠の質とブルーライトとの関連を調べた研究によると、裸眼でのスマホやパソコンなどのスクリーンタイムの時間が増えるほど、中途覚醒が増えたり寝付きが悪くなったりなど全体的な睡眠の質が下がる傾向にあった。

 反対に、夕方以降にアンバーグラスをかけて過ごしてもらったところ、通常どおりの生活を送る対照群と比べて睡眠の質が向上する傾向にあったのだそう。かんたんに言うと、ブルーライトの遮断が被験者の眠りを良くしてくれた。

 研究によっては「アンバーグラスの使用=睡眠導入剤と同レベルの効果」と報告したものもあるほど。

 各種デジタル・デバイスは現代人の生活に欠かせないものだけど、眠りを良くするにはスマホとの付き合い方を見直したほうがいい。この便利道具は睡眠時の不便さをもたらす。

 わたしたちの脳のベースは1万年前にはもう出来上がってるから、現代みたいに光たっぷりな環境は夜のお休みに良くないんだって。夜おそくまでパソコンとにらめっこしてる人には、ちょお〜っとだけお耳イタいイタ〜いな話かもね?

「やっばぁ。私、ミキちゃんの言うこと全部あてはまってるんだけど〜……」

 サヤカちゃんが落胆めいた声をもらした。

 すかっと晴れたお昼どき、今日の晴れ模様に似つかわしくない藍色の声が中庭に溶け込んだ。まるで、憂いを帯びた雨が川の水に溶け込むかのよう。

「あは。サヤカ、役満やくまんだねー」

「や、フルハウスかもよぉ?」

 アンナとエナちゃんはこぞって役を競った。

 ポーカーとマージャンそれぞれの役が宙を飛び交う。役満と比べるとやや劣勢に立たされたようすのフルハウス。アンナの役がエナちゃんの役に挑みかかった。なんて平和な争いなの。

「いや、どっちでもいいからっ」

 サヤカちゃんの言葉をキッカケに、突如あたりにドッと笑いが起きた。まるで、ぱんぱんに膨らんだ風船がパンっとはち切れるかのように。

 3人が笑うのに合わせて、わたしもくすっと笑った。

 ひと気のない中庭に楽しげな声が溶け出していく。やがて笑いがおさまってきた頃、サヤカちゃんは話を戻すかのようにコチラに訊ねてきた。

「んじゃあさー、夜ってスマホあんまイジんないほーがいいってこと?」

「うん、できれば。なかなか難しいとは思うけど……」と、わたしは返した。「もしスマホ使うときはアンバーグラスかけるとかして、できるだけブルーライト浴びないようにするといいよ。メガネならネットで1000〜2000円くらいで売ってるから」

「あ、そーなんだ。結構お手頃だね?」

「そだね。たとえばだけど……」

 わたしはポッケからスマホを取り出して、いつも使っている通販アプリを起動した。お目当ての商品を探すべく、検索キーワードを打ち込む。しゅたたたたっ(注:フリック音)。

「ほら、これとか。1500円くらいで買えるみたいだね」

 わたしはスマホの画面をサヤカちゃんのほうに向けた。

 サヤカちゃんと一緒にアンナもまた、スクリーンをにゅいっと覗き込んだ。飛んで火に入るスマホ女子(?)。

「へぇー、レンズのとこが琥珀色なんだぁ」

「そう、だからアンバーグラス」と、わたしは言った。「色彩学的には、青の補色に近い色がブルーライトを打ち消してくれるから。黄色っぽいレンズでも似たような効果あるみたいだよ」

「へぇ〜……」

 わたしはスマホ画面を覗き込む2人に向けて、アンバーグラスが持つ効果について説明した。サヤカちゃんは納得したようにフンフンと唸っている。

「えー、アタシも見たぁい。どんなのどんなのー?」

 すぐ隣に座るエナちゃんがねだってきたので、わたしは彼女にも見えるようスマホを向けた。スクリーンとにらめっこする女子の図。

「わ、ほんとだ。あんま見たことない色してるー」

「遮光効果とは関係ないけど、フレームも色々あるみたい」と、わたしは言った。「たとえば……ほら、これとか。女性向けのメガネみたいで、フレームが薄くピンクがかってたりとか」

 わたしはスマホ画面をスイスイとスクロールして、となりに座るエナちゃんにメガネの種類を見せた。

「えー、結構かわいいじゃあん」とエナちゃんが言った。「ってか、いま作業員さんが付けてそうなメガネあったんだけど。ウケるー」

「え、何それ見たーい」

「あたしもあたしも〜」

 エナちゃんの言葉に釣られるように、アンナたちもまた画面を覗き込んだ。ひとつのスマホを4人でジッと眺めるレアな光景。

 や、じっさいレアかどうか知らないけど。

 わたしが普段あんまり経験してないってだけかも。わたしと違って一般女子はフツーに経験してることかもしれませんし?(泣)

「忘れないうちに、お買い物リスト入れとこーっと」

 向こう岸にいるサヤカちゃんは、スカートのポッケに手を入れた。

 ポケットから手のひらサイズのスマホを取り出して、サヤカちゃんは慣れた手つきでスクリーンに触れた。彼女の視線は手にひらにある長方形のデバイスに注がれている。

 わたしはスマホと向き合うサヤカちゃんに対して言った。

「よけいな情報かもだけど……もし寝付きが悪いようだったら、メラトニンのサプリとか買ってみるのもいいかも」

「めらとにん?」

 ぴたっと指の動きを止めたサヤカちゃんがコチラに聞き返してきた。彼女の頭のうえにはハテナが浮かんでいるように見えた。たぶん気のせい。

「睡眠の質を良くするサプリメントだよ」と、わたしは言った。「寝付きやすくする効果もあるみたいだから、気になるようなら試してみてもいいかもね。おっきい薬局になら売ってると思うし」

「へぇ、そうなんだぁ。ちょっと調べてみるねー?」

「うん、よかったら是非」

 サヤカちゃんは嬉々としてスマホとご対面している。彼女の口もとには薄っすらと笑みが浮かんでいるように見えた。こっちは気のせいじゃないといいな。

「ミキちゃんって、ほんと何でも知ってるんだねぇ。知識量すごくなーい?」

「ねー、ほんと。マジすごいよね」

 エナちゃんの後に続くかのように、サヤカちゃんもまた褒めてくれた。

 うれしいけど少しだけこそばゆい。ひとからの褒め言葉を素直に受け取れない女の図。もちろん、褒めてもらえるのは嬉しいんだけどね?

「や、なんでもってわけじゃ……」



 キーン、コーン、カーン、コーン——



 ウェストミンスターの鐘の音が鳴りひびく。

 謙遜の姿勢を示そうとした矢先にタイミングよく、わたしの言葉をさえぎるようにチャイムが鳴った。慎みを込めた言葉は予鈴のチャイムにかき消された。

 はじめに口をひらいたのはアンナだった。

「あ、もう時間」

 アンナの後にサヤカちゃんも続いた。

「あぁー、教室もどりたくなぁ〜いっ。数学やりたくないよぉ〜」

 サヤカちゃんが不満の声をもらした。

 エナちゃんたちは続け様にベンチから立ち上がり、自分たちのクラスに戻ろうとしているようだった。わたしとアンナは今もまだ背もたれに背中を預けたまんま。

「アタシもー。次の授業ふて寝しちゃってもいいかなぁ?」

「え、いいじゃーん。私と一緒に先生に怒られちゃお?」

「あ、やっぱやめとくわー」

「切り替え早っ。もうちょっと悩めやぁ〜」

 立ち上がった2人がネコのように戯れ合う。サヤカちゃんにワキをこちょこちょされたエナちゃんが「あはっ」と笑い声をあげた。

「ごめ、ごめんって。ホントだけどウソだからぁ〜」

「いや、どっちだよっ」

 エナちゃんたちの戯れ合いにアンナも加わった。

「ホントだけどウソなんだって。だから、多分そういうことだよぉ」

「いや、どういうこと?」

 サヤカちゃんが困惑めいた声をもらした直後、また先ほどと同じようにドッと笑いが起きた。

 お笑いの風船がはち切れるキッカケは、もちろんアンナのおかしな発言だった。なにか言っているようで実は何も言っていない、中身スカスカのピーマンのような言葉の切れ端。

 サヤカちゃんはワキこちょこちょを終えたあとで、身悶みもだえしたようすのエナちゃんを解放してあげた。

 心なしか、エナちゃんは涙目になっているように見えた。よっぽどワキこちょこちょが堪えたようす。

「はぁ、ツラぁ〜。アタシ脇よわいんだからぁ……」

 エナちゃんは笑いの余韻でひぃひぃ息をもらしている。彼女の口もとには薄っすらと笑みが浮かんでいた。

「や、知らないし」とサヤカちゃんが言った。「ってか、ワキ弱いの私もなんだけど。こちょこちょ強い人っているの?」

「あ、うちのおばあちゃん最強だよ」とエナちゃんが返した。「こないだおばあちゃんち行ったとき、ワキこちょこちょしてあげたけどノーダメージだった」

「んふ、ウケんだけど。どういうシチュエーション?」

 サヤカちゃんはからからと楽しそうに笑っている。エナちゃんのおばあちゃんエピソードが笑いのツボに刺さったもよう。

「エナちゃん、おばあちゃんと仲良しなんだね〜」

 アンナの言葉を受けたエナちゃんが両手でピースをした。

「アタシ、おばあちゃんっ子だからねー」とエナちゃんが言った。「おばあちゃんちウチの近所だしさ。よく休みの日にお邪魔させてもらってんの」

「えー、そうなんだぁ。おうち近いのいいね〜」

「でしょでしょー」

 きゃっきゃと楽しそうに話すアンナたち。次の授業までの時間が締め切りのように刻々と迫る。

「ねぇねぇ、そろそろ戻んなきゃじゃなーい?」

 やがてサヤカちゃんが2人の会話に割り込むように言った。

「あ、そだねー。授業の準備しなきゃだし」

 隣り合ったエナちゃんたちは、こちらに向かって手を振った。

「じゃあ、またねー」

「ミキちゃん、ホントありがとーね。また今度お礼させてー?」

 サヤカちゃんはフリフリと手を振りながら、わたしに次回のお礼の予告(?)を告げた。

「あ、うん。おかまいなく……」

 わたしたちはお互いに手を振り合った。すぐ隣に座るアンナもまた両手を小さく振って2人に別れを告げた。

「またねぇ〜」

 やがてエナちゃんたちは校舎に向かって歩き出した。

 だんだんと小さくなっていく背中が2つぶん。風に吹かれたスカートの裾がひらひらと踊っている。まるで、そよ風に誘われてダンスを踊っているかのよう。

「あたしたちも行こっかぁ」

 わたしは声に誘われて隣に顔を向けた。もう既にアンナはお弁当箱をしまっているようだった。

「うん」

 わたしは短く返事をしたあと、お弁当箱を袋の中にしまった。

 仕上げとばかりに紐をキュッとしばると、わたしの手元には2つの輪っかができた。

 くるっと円を描いた2つのまあるい輪っか。丸い輪っかに指を通してお弁当箱を持ち上げたあと、わたしはアンナよりも先にベンチから立ち上がった。

 こちらの動きにならうように、アンナもまた立ち上がった。まるで、脳のミラーニューロンが作動したかのよう。

「サヤカちゃん、眠れるようになるといいねぇ」

 わたしはアンナの言葉に頷いて返した。肯定を示すジェスチャー。

「夜ねむれないのって、わりとツラいもんね」

「だよねぇ。あたし、夜ちゃんと眠れないのってヤだなぁ〜」

「アンナは普段よく寝る人だよね」と、わたしは言った。「うちに泊まりに来たときとかも寝るの早いし。すぐ眠れるの羨ましいな」

「えー、何それぇ。ひとをコアラみたいに〜」

「や、そういうわけじゃ……」

 校舎へと向かう途中、アンナは歩きながら冗談混じりに笑った。もう終わりかけの休み時間に、ひとつの曇りもない笑顔が馴染むように溶け出した。

「あたし、昔っから寝付きいいんだよね〜」とアンナが言った。「さっきはサヤカちゃんに悪いから言わなかったけど、あたしお休みのことで悩んだこと一回もないんだぁ。なんでだろーね?」

「遺伝もあるのかもね。睡眠って遺伝子に影響される割合けっこう高いみたいだし」

「へぇ、そうなんだぁ。ちょっと得した気分かも〜」

 心なしか、アンナが一瞬スキップしたように見えた。

 得した気分が足取りにも表れているもよう。まるで、まあるいボールがポンと弾むかのような軽い足取りだった。

「言われてみれば、あたしのお母さんもすぐ寝る人だしなぁ」とアンナが言った。「お母さん、いつも10時くらいには寝てるし。うちのお姉ちゃんは夜更かしさんだけど〜」

「アンナはお母さんの影響が強く出たのかもね」

「だね〜」

 教室に着くまでの間、わたしたちは束の間のお喋りに興じた。もうじき、この戯れが終わりを迎えることを知りながら。

 緑と青。

 澄みわたる青空と生い茂る緑の木々。

 中庭の真ん中あたりにある大きな木は、もうすっかり青々しい葉をつけている。

 校舎の近くに生えている背の低い木もまた青く茂っている。中庭の隅っこに並んだ一列の花壇には、たくさんの色をつけた色とりどりの花。白い壁とのコントラストが目に眩しい。

 吹き放しの渡り廊下に差しかかった頃、わたしの手の甲がアンナの手に触れた。

 お互いの手が触れたのをキッカケに、アンナはわたしの指先を軽く握った。まるで、ちいさな子どもが友だちと指きりでもするかのように。

 ふたりの指が絡み合う。

 指先の戯れ合いを通じて、アンナの体温がコチラにも伝わってきた。

 まるで、春の陽だまりのように優しい体温。ひゅうっと風が吹けば飛んでいきそうなくらい微かなぬくもりだった。

 この熱がどこか遠くに逃げてしまわないよう、わたしもアンナの指をきゅうっと握り返した。お互いの熱と熱をちゃんと繋いでおかないと、この温もりは勝手に逃げてしまうだろうから。きっと、うんと人見知りなお化けみたいに。


 とうに過ぎた季節を前にして、わたしは熱の余韻にひたった。

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