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③夜伽の国のアリア
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【第3章】ウソつきでごめんなさい
夕暮れ。
街はずれの小道。
おつかいを終えての帰り道。
わたしは割れた卵を街で買い直したあと、もうすっかり歩き慣れた小道を歩いていた。とぼとぼ、とぼとぼ(※わたしの足音)。
橙色が溶け出した空。わたしの頭上にある空は夕焼けに染まっている。途中ライたちに絡まれたせいで、おうちに帰るの遅くなっちゃった。あんまりママに心配かけたくないのにぃ。
遅くなった理由、なんて説明しよう?
途中でタマゴ割っちゃったことも、ちゃんと正直に話さなきゃだよね。買い直すのに余計お金つかっちゃったわけだし。
もう、ほんっと最低。
わたしが割ったわけじゃないのに、なんで言いわけ考えなきゃなんだろ。
次ライたちに会ったときは、さいしょっから無視してやろ。まるで姿が見えない幽霊かのごとく、徹底的にスルーしてやるんだからっ。お亡くなりになった卵たちの亡霊に恐れおののくがいいよ!
「はぁ……」
しぜんと、わたしの口から溜め息が出た。辺りに藍色の吐息が溶け出す。
家に帰る足取りは重い。時間的には早く帰らなくちゃいけないのに、自宅へと向かう足取りは鉛のように重かった。もう門限ギリギリくらいの時間帯なんだけど。
とぼとぼと足取り重く歩いていると、やがて遠くのほうに自宅が見えてきた。
1階の窓からは灯りが漏れていて、家の中に人がいることがうかがえる。きっとママがキッチンにいるんだと思う。お夕飯の準備しなきゃな時間だもんね。
だんだんと自宅が近づいてくる。
わたしは誘蛾灯に吸い込まれる虫のように、重い足を引きずるような気持ちで家に向かった。
やがて自宅の前に着いた。一旦、わたしは扉の前で立ち止まっな。玄関横にある庭のほうを目を向けると、丈の低い緑が生い茂っているのが見えた。所在なさげな視線が宙をただよう。
玄関ドアを開けて家のなかに入ったあと、わたしはキッチンにも届くような声で言った。
「ママぁ、お買い物してきたよぉ〜」
わたしが家に帰ったことを告げると、キッチンのほうから声が返ってきた。やんわりとした母性的な声だった。
「あら、アリア。ずいぶん遅かったのね?」
わたしはママの声に誘われて、物音がする台所へと向かった。キッチンに立つママが料理の準備を進めていた。
「遅くなってごめんなさぁい。門限は破ってないよ?」
わたしはキッチンに立つママのもとへと向かいながら、指摘されるであろうことを先に言い訳まじりに言った。
まぁ、わかんないけど。
お外もうすっかり赤くなっちゃってるからね。時間的には多分けっこうギリギリだと思う。多分ね、たぶん。
「えぇ、そうね。頼んだもの買ってきてくれた?」
作業の手を止めたママが訊ねてきた。小豆色をした2つのガラス玉がコチラを見つめている。
きた。
ちゃんと謝らなきゃ。
わたしは頭のなかで謝罪の言葉を考える。ママの反応に身構えてか、しぜんと身体がこわばった。
「うん、買ってきたよぉ」と、わたしは言った。「買ってきたん、だけど……わたし、ママに謝らなきゃなの」
「あら、どうしたの?」
きょとんとしたママの顔にも構わず、わたしは手に持っていた袋を広げた。お買いもの袋に入ったものの中から、割れた卵が入った小袋を取り出した。
「これ……」
わたしは袋の中身を広げ、正面に立つママに見せた。小袋のなかにはバラバラに砕けた卵の殻が入っている。
「あら……たまご、割れちゃったのね」
ママの声は落胆めいているように聞こえた。
「ママ、ごめんなさい……」と、わたしは言った。「帰る途中、よそ見してて転んじゃったの。そのときに割れちゃって……」
「まぁ、そうだったの。大丈夫なの、ケガしてない?」
ママの気遣いに胸が痛む。
ウソで塗り固められた心に優しさが突き刺さった。まるで、先端の尖った透明な槍で突き刺されたかのよう。
「うん、大丈夫。被害者は卵たちなの」
わたしは先ほどの事実を伏せてママに報告した。偽りの事実を口にするたびに心がチクチクと痛む。
んでね、ほんとうの加害者はライたちなの。
わたしが割ったワケじゃないの……って、ほんとうは言っちゃいたい。さっき帰り道の途中で起きたこと、ありのままママに言っちゃいたい。
だけど、ダメなの。
わたしが本当のことを言ったら、きっとママを心配させちゃうから。
口もとを隠すように手を当てて、ママはくすっと控えめに笑った。花が咲いたかのように笑うママを見ると、なおのこと針で刺されるように心が痛んだ。
「ふふ、おもしろいこと言うのね」とママが言った。「割れちゃった卵は……仕方ないから、今回は捨てましょうか」
「ごめんなさい、お金と卵ムダにしちゃって……」
わたしはショボンとしょぼくれた。声にチカラがないのが自分でも分かった。
わたしの気持ちを気遣ってか、ママはそっと頭を撫でてくれた。頭のうえに毛布のような優しい感触がした。
「いいのよ、気にしないで」とママが言った。「ほぉら、暗い顔しないの。割れちゃったものは仕方ないんだから」
「……」
わたしは自責の念に駆られて黙り込んだ。
やさしい視線を頭のてっぺんに感じる。うつむいているせいで顔は見えないけれど、わたしはつむじの辺りにママの視線を感じた。
「また次お買い物するときに気を付けたらいいわ。ね?」
ママが優しい言葉をかけてくれる。
わたしは顔を上げてママの顔を見た。2本の線と線が交わるように、お互いの視線が宙でぶつかった。
「うん、わかったぁ。次はちゃんと気を付ける」
「いい子ね。さ、疲れたでしょう」とママは言った。「ご飯の準備もう少し時間かかるから、さきに洗面台で手ぇ洗ってきなさい」
「はぁい」
わたしは洗面所に向かうべく、きびすを返して後ろを向いた。あいかわらず、肩はしょんぼりと落ちている。
ウソ、ついちゃった。
ママに嘘ついちゃった。ほんとうは転んでなんてないのに。
転んでないんだから、ケガするはずもない。ほかの食材は傷ついてなくて、タマゴだけ割れたのもおかしい。わたしのウソに巻き込んだうえ、ママに余計な心配かけちゃった。
どんよりと暗い感情が心を包み込んでいく。
わたし、こんなにウソつきだっけ。ママに平気で嘘ついちゃうような子だったっけ。なめらかに滑り出ていく言葉が憎い。
じゃあ、どうしたら良かったの?
「ライたちのせいで、たまご割れちゃった」なんて言えない。
そんなこと言えないよ。「帰り道で男子たちにちょっかいかけられた」なんて言ったら、ぜぇったい大ごとになるうえにママのこと心配させちゃうもん。
もっと上手にウソつけばよかったの?
わたし、ウソなんて吐きたくない。だって、うそ吐くたびに自分がイヤな子になるみたいなんだもん。
わかんないよ。わたし、どうしたら良かったのかな。ママに心配かけずに済む方法があるなら教えてよ。そんな方法があるんなら、いじわるしないで教えて——
「アリア」
洗い場へ行こうと後ろを向いたあと、わたしの背中にママの声がかかった。ひどく優しい声のトーンだった。
わたしはママの声に誘われて、もういちど後ろを振り返った。
ママの優しげな表情。視線の先にいるママは笑顔を浮かべていた。罪悪感に濡れたわたしの心を溶かすかのような微笑みだった。
少し離れた距離にいるママから、ちょいちょいっと手招きされた。まるで、なにか伝え忘れたことがあるかのように。わたしは招かれるままにママのもとへと向かった。
わたしの目線に合わせるよう、ママはその場にしゃがみ込んだ。
「ねぇ、アリア」とママが言った。「ママはアリアのことが大好きよ」
こちらの心を見透かしたような、ひどく優しい声のトーンだった。
「あなたが幸せでいてくれたら、ママも幸せな気持ちになるの。ママが言いたいこと、わかる?」
「うん……」
ママから訊ねられて、わたしは短く答えた。肯定を示す頷きを傍らに添えながら。
わかる、わかるよ。
ママが伝えようとしてること、わたしにもちゃんと分かるよ。
わたしの心に何かがジワッと沁み込んだ。まるで、水がスポンジに染み込むみたいに。ママの伝えたいことが痛いくらいに分かる。
「ほら、おいで」
ママはしゃがみ込んだ姿勢のまま、わたしを誘うように両手を広げた。
わたしはママに招かれるまま、ゆっくりと近づいて抱きついた。わたしの背中にママの両手が回されて、溶けるような体温が身体を包み込んだ。全身が優しい熱で満たされていく。
「誰にでもミスはあるわ」とママが言った。「そんなに落ち込まないでいいのよ。失敗から学ぶことほうが大切だから。ね?」
正面には笑顔がある。
わたしの大好きなママの笑った顔がある。
これ以上ママに心配かけたくなくて、わたしは普段どおりに笑ってみせた。
「わたし、もう暗い顔しないっ」と、わたしは言った。「わたしも大好きだよっ。ママのこと大好き!」
「そう、嬉しいわ。ママも元気なアリアが大好きよ」
ママは再度わたしの頭を撫でてくれた。そっと撫でる手が優しくて心地良い。
「ママの手きもちい〜」
されるがままにママに頭を撫でられるわたし。
しぜんと、ほっぺが緩んだ。わてくし、さながら飼い主に頭をナデナデされるペットの気分なのです。わんわんっ(注:わたしの心の鳴き声)。
「さ、手ぇ洗っていらっしゃい」とママが言った。「夕飯の時間まで部屋で休んでるといいわ」
「うんっ。あとで、お手伝いしに来るね?」
「あら、ありがとう。アリアは良い子ねぇ」
わたしの頭を撫でるママの手が少しだけ早まった。ママの優しい手がくすぐったくって気持ちいい。
えへ。
ママに褒められちゃった。わたし「いい子」だって!
さっきのウソがなかったら、手放しで喜べたんだけどね。ちょっとだけ良心が痛むけど、ほめ言葉は素直に受け取ります。
「えへ。どこに出しても恥ずかしくない娘ですぅ」
わたしが自惚れたことを口にすると、正面にいるママが苦笑いを浮かべた。
「それは自分で言うことじゃないのよ?」
「あは。うぬぼれは蜜の味なのだぁ〜」
わたしの世迷言を聞いてか、ママはフッと鼻を鳴らした。ちょっぴり呆れたような感じだった。
「ほんとう、そんな言葉どこで覚えてくるのかしら……」
わたしは洗面所へと向かう前に、もう一度だけママに抱きついた。むぎゅっと。
まるで心ごと包み込むかのように、ママはわたしを抱きしめてくれた。ぬくもりの余韻が身体じゅうに伝わるのを感じた。
わたしはキッチンを後にして、手を洗うべく洗面所に向かった。
洗面所に着いてパシャパシャ手を洗ったあと、ついでに口に水を含んでガラガラうがいもした。いつカゼ引くか分かんないからね。いっつも元気でいるためには、普段から予防が大切なんだよ?
わたしは洗面所を後にして、夕陽が差し込む廊下を歩いた。
窓から差し込むオレンジ色。夕焼けはすっかり色を濃くして、家のなかを橙色に染め上げている。
家の床を照らす茜色の日差しを受けながら、わたしは2階にある自分の部屋へと向かった。木造りの階段を一段ずつのぼって上の階にあがると、窓から差し込む夕陽がさらに色を濃くしたように感じた。
橙色の夕陽が1階と同じように2階の床を照らしている。
わたしは廊下の突き当たりにある自室の前に立ち、入口のドアを開けてから後ろ手に扉をパタンと閉めた。ドアを閉めたとたんに、室内に静寂が広がった。
わたしは部屋に入るやいなや、窓辺にある棚のほうに向かった。
棚の最上段には、お気に入りの人形が座っている。棚の上にちょこんと座るお人形に手を伸ばし、わたしは両手で抱き抱えるように持ち上げた。ひょいっと。
「ねね、カノンっ」
わたしは手に持った古ぼけた人形に話しかけた。
「今日はね、滝の畔でお歌うたってきたよ」と、わたしは言った。「小鳥さんたちも木の枝に集まっててね、いっしょにお歌うたってるみたいだったの。すっごく気持ちよかったんだよー?」
今日あったことをカノンにご報告。
お人形だから何も返事してくれないけど、わたしがカノンに話したいだけだからいいの。大切な友だちに今日の出来事お話ししてあげるんだぁ。
「ママにおつかい頼まれてたからね、お歌のあとは街でお買い物したんだよ」と、わたしは言った。「そしたらね、シゼルおばさんが食材選び手伝ってくれたの。おばさんってば、ほんっと優しいよね?」
わたしは頭の中にシゼルおばさんの顔を思い浮かべた。
やさしくって面倒見のいいシゼルおばさん。いじわるなライたちとは違って、いっつも優しい言葉かけてくれる。
シゼルおばさんってね、いつも会うたびに嬉しいこと言ってくれるの。胸の辺りが「きゅうーんっ」ってなること言ってくれるんだよ。「きゅうーんっ」が何かって言われると逆に困るんだけど。「きゅうーんっ」は「きゅうーんっ」だよ。ね、わかるでしょおー?
「家に帰る途中おジャマ虫が入ってきたけど、結局そのあと街までタマゴ買いに戻ったんだぁ。わたし、ライたちのこと本当きらいっ」
ほんっと、シゼルおばさんとは大違いっ。
会うたびに嬉しい言葉かけてくれる人と、会うたびにイヤなこと言ってくる人たち。どっちのほうが好きかなんて、あえて言うまでもないよねー?
ライたちにはシゼルおばさんの爪の垢せんじて飲ませてあげたいね。どんぶり山盛りで爪の垢そのまま丸ごと飲ませてあげたいよ。本人たちが「イヤだ!」ってゴネても、わたし絶対ゆるしてあげないんだからっ。爪のアカ煎じ茶がぶがぶ飲ませちゃうの刑に処す〜っ!
やっぱり、おばさんとライたちじゃキャリアが違うよね。
シゼルおばさんの生きてきた年数、そのまま人柄に現れてる気がするよ。おバカさんには爪のアカ煎じるだけじゃ、ちょお〜っと物足りないくらいかもねー?
わたしは心のなかでライたちへの悪態をつきながら、つい先ほどのキッチンでのやり取りを脳裏に浮かべた。
「あのね、カノン……」と、わたしは言った。「わたしね、さっきママにウソついちゃったの……」
しぜんと、声のトーンは下がった。
まるで懺悔室で自分の罪を告白するかのように、わたしはママにウソをついたことを打ち明けた。目の前にいる小さな友人は、ほのかに笑みを浮かべている。
「ほんとはライたちにちょっかい出されてタマゴ割れたのに、ママには『道で転んだときに割っちゃった』って言ったの。わたし、うそつきになっちゃった……」
ちいさな友人は何も言わずに、こちらの話を聞いてくれている。お姫さまのような微笑みを口もとに湛えながら。
「……ねぇ、カノン」
ひどく弱々しい声だった。
「わたし、みんなみたいにしたほうがいいのかなぁ……?」
わたしは独り言のようにポツリと呟いた。
後ろ向きな気持ち。たとえ目には見えなくとも、自分の声に藍色の感情が溶け出しているのが分かった。
わたし、まちがってるのかな。
この頭に付けてるリボンも、外さなきゃダメなのかなぁ。結構お気に入りなんだけど。
わたし以外に頭にリボンつけてる人いないもんね。ファッション好きの "おませさん" だって、せいぜいワンポイントでアクセ付けるくらい。こんなに大っきなリボン付けてる人、わたし今まで出会ったことないしさ。
変人アリア。
つい先ほど、ジョンが口にした言葉が脳裏をよぎった。
わたし、べつに変じゃないし。たんに自分の好きな服装してるだけだもん。たしかに、みんなとは少し違うかもだけど。
みんなと同じようにしたら、ちょっかいもなくなるのかな。やたらライたちが突っかかってくるのって、わたしが周りと比べて異質だからだもんね。前にパパが「目立つ人は叩かれる」って言ってた通りかも。
くだらない。
ほんっとクダラナイ。ばっかみたいっ。
ちょっとくらい周りと違ってたっていーじゃん。わたし、べつに何か悪いことしてるわけじゃないもん。お巡りさんに捕まるようなことしてないしっ。
「……大丈夫、だよね?」
わたしは目の前にいる小さな友人に同意を求めた。かすかに笑うカノンが「大丈夫だよ」って言ってくれてるような気がした。
わたし、今のままでもいいよね?
自分の好きな格好をして、自分の好きなように歌う。ほかの子たちと同じじゃなくたって構わない。ちょっとくらい周りと違ってても別にいいよね?
ねぇ、カノン。
いいよね。わたし、自分の好きなようにしても——
わたしが目の前にいる小さな友人に訊ねたあと、カノンは肯定を示すかのようにコクリと一つ頷いた……ような気がした。
「……気のせい、かなぁ」
なんか一瞬だけ、カノンが笑ったように見えたけど……見間違いかな?
まぁ、ホラーな話だけど。
『動く人形』なんて、ホラーでしかないよね。ちょっと怖いし。
夕暮れ、お人形。お日様が今にもお顔を隠そうとする黄昏時、ひとりでに動き出すアンティーク・ドール。
この字面だけ見ても、ホラー感ぷんぷんだね。夜中ひとりでおトイレ行けなくなっちゃうヤツじゃあん。ひえぇ〜ん(注:わたしの心の悲鳴)。
そんなわけないか。
カノンは大切な友だちだけど、ごく普通のお人形さんだもん。
わたしの声に応えてくれたら嬉しいけど、とくに魔法がかかってるわけでもないから。かりに魔法がかかってたとしても、もちろん受け答えはできないしさ。お人形とは喋れませぇ〜ん。
「あ、そうだ」
ふと、わたしは明日の予定を思い出した。
「明日はね、街まで買い物しに行こうかなって思ってるの。カノンはお留守番ね?」
こちらの問いかけに対して、カノンは特に反応していない。やっぱり、さっきのは見間違いだったのかなぁ?
ひょっとしたら、わたし今日ちょっと疲れてるのかも。
なんかノドもガラガラしてる気ぃするし。母なる滝にいるときに歌いすぎちゃったかも。わたしのおノドが危険信号〜っ。
「ちゃんとお留守番する良い子には、お着替えさせてあげましょうね〜」と、わたしは言った。「今日はダークブラウンの衣装にしよっか。カノンは茶色が似合う女だもんねー?」
わたしは棚の上にあるコンパクトな衣装ボックスに手を伸ばした。
お人形用の衣装ボックスの引き出しを引いて、中にあるダークブラウンの衣装を手に取った。わたしはカノンが着ている服を外し、いま手に取ったものを着せてあげた。雪のような白から栗のような茶色に衣装チェンジ。
「うんっ、おっけー。カノンは茶色がお似合いだね?」
手元にいる小さな友人の衣装を替えてあげたあと、わたしは自分が外着のままでいることに気づいた。そういえば、まだ着替えてなかったや。
「とりあえず、わたしも部屋着に着替えよっかな」
わたしは小っちゃな友だちを元の棚に戻したあと、自分の背丈よりも少し大きい姿見の前に移動した。鏡面が天井のライトをキラッと反射している。
わたしは鏡の前でヒラっと身をひるがえした。
お着替えタ〜イム。鏡の前で1回くるっとターンすると、わたしの服装が部屋着に切り替わった。
ただし、頭のリボンだけは同じ。おっきなヘアリボンはワテクシのトレード・マークでございますのでね。サイズ感そのままに着け心地バツグンでお送りしておりますのでね。あしからずぅ〜。
よそ行き用のお洋服から部屋着に着替えた直後、扉越しに「アリアー?」とママの声が聞こえた。
「ごめーん、ご飯の準備ちょっと手伝ってもらえるー?」
よく通るママの声が部屋じゅうに響きわたった。ミューズと聞き紛う母性的なメゾソプラノ。
「はぁーい、いま行くぅーっ」
わたしはママに呼ばれて1階におりる前に、頭に付けたリボンの着け心地をたしかめた。
くいくいっとリボンの両端を引っ張って、鏡の前でひとりファッション・チェック。左右に垂れた紐が均等な長さになってたら最高。「服装の乱れは心の乱れ」なんだって。前にママが言ってた。
うんっ、ばっちし!
不思議なことに、服装を整えると気持ちまで引き締まる気がした。今わたし部屋着だけどね。あは。
わたしは服装チェックを終えたあと、1階にいるママのもとへと向かった。直接は見えないけれど、階段を降りるたびに頭のうえにあるリボンがぴょんぴょこ跳ねているように感じた。
ちらっと横目で見た窓の景色は、もうすっかり藍色に染まっていた。
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