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②Mikipedia:科学少女ミキのお悩み相談室


【第2章】夏の暑さに浮かされて


 翌日。

 朝の通学時間帯。

 学校。教室の窓から見える外の景色。

 窓の向こうには緑が生い茂っていて、木々の合間では百日紅さるすべりが咲いている。風が吹き、花そよぐ。

 夏を知らせる花ひとつ。薄桃の花をつけたサルスベリ。校庭前の花壇には夏が咲いていて、わずかに初夏の面影を残している。どうにもシロツメクサは、日向ぼっこが好きらしい。

 夏が好き。

 夏の青々しさが好き。

 青い空も、白い雲も。茹だるような暑さも含めて夏が好き。

 汗でベタつくのはちょっぴりヤだけど、海やプールを楽しめるのは夏の醍醐味。寒中かんちゅう水泳すいえいのーせんきゅー。

 夏祭り。夜空に打ち上がる大輪の花。じりじりとした夏の日差しから逃れるように、クーラーの効いた部屋に入る瞬間が心地いい。温度差にやられちゃいそうになるけど、気温差が逆に幸せを運んできてくれる。そんな気がする。

 青くて高い空。

 めいっぱい手を伸ばしても届かないほど高い空が好き。

 夏の木漏れ日。木擦れの音に、川のせせらぎ。茹だる暑さから逃れるように、自然が生み出す音で涼を取る。耳が涼しい。

 夏特有の湿った空気すらも愛おしい。ジメジメした空気が好きじゃない人もいるだろうけど、カッサカサに乾燥した冬の空気よりはいいかなぁって。毎冬のスキンケア代もばかにならないし。だってほら、わたし乾燥肌じゃん?

 あ、でもゴキ〇リだけは無理。

 いくら夏が好きとはいえ、アイツらだけは人類の敵。ゴキブ〇好きの人間っているのかなぁ?

 生物多様性が生み出してしまった全人類の嫌われ者。ダーウィンさんもビックリの負の遺産。生理的嫌悪の象徴的存在。神さま唯一の失敗作。黒光りの悪魔。さたん。

 あの黒光りしたフォルムが気持ち悪くってしょうがない。夏になるたび何処からともなく湧いて出るけど、〇キブリだけはホントもうマジで生理的に無理。科学のチカラで徹底的に撃退したくなるよね。ねっ?(圧)

 おなじ黒光り系のフォルムでも、アリはまだ可愛く見えるのにね。嫌われ者のゴ〇ブリとは似ても似つかない。

 アリでも大群を成してたら遠慮したいけど、2〜3匹くらいならちっちゃくって可愛い。ちょこちょこ歩いてる感じが「がんばって生きてます!」感あって可愛いよね。ついつい遠巻きに応援してあげたくなっちゃう。この感覚って、わたしだけかなぁ?

 まぁ、ズームアップしたら完全に虫だけどね。

 6本足で歩く黒い塊。もしペットとして飼ってたら間違いなく、変わり者あつかいされるタイプの生き物(※偏見)。

 犬とか猫を飼うのとはワケが違うからね。

 ゴキ〇リを家で飼ってる狂人よりかはマシだけど、アリをペットとして飼うのは一般的じゃなさそう。

 夏のあっつい日に公園の木陰で涼みながら、アリの行進を眺めるくらいでちょうどいい。セミたちの大合唱も相まって、夏を存分に感じさせてくれる。わたしの好きなシチュエーション。

 アンナも夏が好きみたい。

 前に話したとき「四季の中で夏がイチバン好き〜」って言ってた。

 たんにコッチの話に合わせてくれただけかもしれないけど、アンナが夏好きらしいことは前からなんとなく分かってた。

 やたら近所のプールに行きたがるところとか、なにかにつけて水着を買いたがるところとか。ひまわりの花を愛おしむような目で見てたことも知ってる。きっと、アンナも夏の暑さに浮かされたんだと思う。少なくとも、毎夏わたしを屋内プールに誘うくらいには。

 わたしと同じ夏女。

 夏の色に魅せられて、夏の香りに誘われる。まるで、花の香りに誘われるミツバチみたいに。

 わたしなんかと同じにされるのは心外かもだけど、夏が来るたび水浴びしたがるアンナは夏女のはず。友だちを勝手に自分の同類として扱う女の図。だって、ひとりぼっちは寂しいんだもん。仲間が欲しいんだもん。かるだもん(?)。

 毎年、夏の終わりは切なくなる。

 晩夏ばんかを迎えるたびに切なくなる。季節の移ろいがメランコリーを連れてくる。

 夏の残滓ざんしを両手でかき集めるたび、切なさで胸の奥に甘い痛みが走る。心臓の奥深くが切なさできゅっとなる。まるで、仲良しの友だちと離れ離れになるときみたいに。

 あ、言っとくけど心筋梗塞じゃないよ?

 わたし、まだ高校生だから。まだ心筋梗塞を起こすような年齢でもないから。元気いっぱいの健康優良児でございますのでね。どうか、ご心配なく。

 夏はワクワクする。

 今年も夏が来るってだけで、しぜんとウキウキしてくる。ふしぎな高揚感。

 夏休みになることを楽しみに待つ子どものように、わたしは夏の暑さを待ち望んでいる自分に気付く。心の浜辺にドキドキが打ち寄せる。

 待ち遠しくって仕方ない。こんなにも心が浮き立つのは、もうじき夏がやって来るから。いちばん好きな季節が歩み寄ってきてるから、わたしの胸がボールみたいに弾んじゃうんだ。声に出すのは憚られる激痛ポエムを、ついつい心のなかで呟いちゃうんだ。うん、そうに決まってる。まちがいないね(確信)。

 わたしが一人で感傷にひたっていると、廊下のほうから話し声が聞こえてきた。聞き馴染みのある声が2つぶん。

「おっはよー、ミキちゃん。今朝も早いねー?」

「いっつも朝一番だよねー。早起きできんのうらやま〜」

 教室に入ってきた同級生の女の子たちは、開口一番わたしに挨拶をしてきてくれた。

「お、おはよ」

 2人の勢いに押されたわたしは、とくに気の利いた返事もできず。あちらに向けて笑いかけるのが精いっぱいだった。

「こないだミキちゃんが言ってたサプリ、あたしのお姉ちゃんにも勧めてみたよ。『貧血が軽くなったかも』って言ってた〜」

 同級生の1人は鞄を机に置いたあとで、喋りながらわたしの元へと歩いてきた。もう1人の女の子もまた彼女の後に続いた。

「そっか、よかった」と、わたしは言った。「摂り過ぎもよくないから、1日1粒でいいと思うよ。お姉さんってコーヒー飲む?」

「飲む飲む〜。ブラックは好きじゃないらしいから、カフェオレにして飲むみたいだけど」

「カフェインは鉄分の吸収を妨げちゃうから、時間あけてからサプリ飲んだほうがいいよ。カフェオレでも同じね」

「え、そーなんだ。お姉ちゃんに伝えとく〜」

 わたしの話に納得したらしい同級生の女の子は、ポケットから取り出したスマホを操作し始めた。お姉さんに連絡してあげてるのかな?

「ミキちゃん、ほんと何でも知ってるよねー。人間Wikipediaじゃーん」

 もう1人のクラスメイトがコチラに話しかけてきた。

 わたしは胸の前で手を左右に振って、ひとまず謙遜まじりに否定を示した。褒められるのは大変うれしいでございますけれども。まっこと恐縮でございますけれどもね。えぇ、えぇ。

「や、そこまでじゃ……」と、わたしは言った。「妹が小さいころに貧血ぎみだったから、たまたま知識として知ってただけだよ」

「えー、そうなんだぁ。どこで何が役に立つか分かんないねー?」

「ね、ほんと」

 わたしと同級生の女の子①が話していると、もう一方の同級生②が「ねぇ〜」と言った。

「あたしノド乾いちゃったぁ。購買に飲みもの買いに行かなーい?」

「いいよー。うちも何か冷たいの飲みたーい」

「最近もう暑いもんね。あたし夏より冬派だな〜」

「うちもー。汗かくとメイク落ちちゃうしさぁ、夏って正直あんま良いことなくなーい?」

「わっかるぅ〜。あたし、季節の中で秋がイチバン好きかも」

「あは、たった今『冬派』って言ったばっかじゃん。この浮気者ぉ〜っ」

 わたしの目の前にいる2人は、楽しそうにじゃれ合っている。昨日と同じく、オレンジ色の声が室内に溶け出していった。

 アドバイス、役に立ったみたいで良かった。

 科学的な観点から見ると、女性は鉄が不足しやすい。男性にはない月経が毎月あることも影響して、そう少なくない女性に軽度の貧血が見られる。

 鉄分の不足は心身ともによくない。サプリメントとかで補強できたらいいけど、日々の食事から充分な量を摂るのは難しい。鉄の吸収率は食品ごとに違ってて、効率よく摂取するのは至難のワザ。鉄欠乏性貧血は女性のほうが5〜6倍くらい多いんだって。みんな体内に鉄が足りてないんだろーね?

 鉄不足は心身の不調をもたらす。

 月経痛や生理不順などはもちろん、さらにメンタルへの影響も大きい。

 たとえば、鉄分と精神疾患との関連を調べた研究では、体内の鉄分量が平均を下回っている被験者のほうが、うつ病や不安障害といった精神的な病気にかかるリスクが高くなる傾向にあった。

 具体的には、鉄欠乏性貧血の症状が見られる人では、1.52倍も精神疾患の罹患リスクが高かったのだそう。鉄の不足は神経系を通じてメンタルの不調を招き、うつや不安などの症状を悪化させる可能性がある。鉄サプリが効果的なのは、貧血だけじゃないんだね。

 また別の研究では、鉄不足と認知機能の関連を調べたところ、鉄分量が足りていない人ほど脳の働きが鈍く、認知機能を図るテストのスコアが低くなる傾向にあった。

 より詳しく言うと、体内の鉄分量を示すフェリチン値が低い被験者には、IQにして平均5.8ptほど認知機能が低下する傾向が見られた。被験者に鉄分を摂取してもらったところ、この認知機能の低下は解消したのだそう。鉄のサプリメントを補給したことで、本領発揮できるようになったんだね。わぁ、すごぉい。

 普段あんまり意識することないかもだけど、鉄って心と身体を安定させるために超大切。

 体内にある鉄ってストレスを受けるたびに減っちゃうから、日頃から補給しておかないとあっという間に不足しちゃう。月経がある女性は特にね。

 ちなみに、わたしも1日1粒ずつ飲んでる。

 毎日ちゃんと鉄サプリ摂るようになってから、ふしぎと体調崩すことも減ったかなって思う。

 雨の日の頭痛が少なくなったりとか、風邪あんまり引かなくなったりとか。お医者さんじゃないから詳しくは分かんないけど、鉄分が一種の予防薬みたいになってるのかもだね。朝すっきり起きれるのもGood。遅刻しないで済むし。

 たとえるなら、フェリチンは心と身体を守るバリアみたいなもの。

 鉄分の不足は寒い冬の時期に裸になるとの同じこと。真冬に素っ裸でシベリアを走り抜けるくらい命知らずなことだよ。ちょっと流石に言い過ぎ?

 まぁ、それはいいとして。

 やがてじゃれ合いがひと段落したところで、同級生2人はコチラに向かって手を振った。

「じゃあね、ミキちゃん。またあとで〜」

「サプリメントのこと、ホントありがとーね?」

 こちらに手を振りかける同級生たちに倣うように、わたしも教室を離れようとする2人に手を振った。

「ま、またね」

 お互いに手を振って別れを告げたあと、女の子2人は渡り廊下に消えていった。2人が教室を出て行ったのと入れ替わりで、先ほどと同じような静けさが室内に訪れた。

 わたしは同級生の背中を見送ったあと、心臓の鼓動が騒がしいことに気付いた。

「……」

 脈打つ心臓。

 なかなか鳴り止まない胸の鼓動。

 わたしは心臓がばくばくと脈を打つのを感じながら、2人のクラスメイトが残していった余韻にひたった。


 あっ、ぶなかったぁ〜っ。


 い、今の誰と誰だったんだろ。

 リコちゃんとアキちゃんかな。や、もしかしたらアヤカちゃんだった可能性も……?

 もう入学してから2ヶ月は経ってるのに、いまだに同級生の顔と名前が一致しない。向こうはコチラの名前を覚えてくれているだけに、お返しができずにいることへの罪悪感もひとしお。わたしの心に罪の意識が突き刺さる。ぐさぐさ、ぶすりっ。

 や、ちゃんと覚える気はあるんだよ?

 ただ他の人よりも顔認識と名前一致がヘタなだけで、自分でクラス名簿を作るぐらいには頑張ってるもん。受験勉強するときと同じくらい、わたしなりに努力してるんだよ?

 なかなか人の顔を覚えらんない身からすると、担任の気まぐれで席替えされるのとか超地獄。

 こっちはクラスメイトの顔と名前を一致させるのに必死なのに、ある日とつぜん何の前触れもなく席チェンジされるとか超地獄。またイチからクラス名簿つくり直さなきゃいけなくなるじゃあ〜ん。ちっくしょお〜っ。

 こンの薄汚れた文科省の手先めぇ〜っ。

 ほんっと職権濫用もいいとこだよ。国家権力の傘の下に入ってるのをいいことに、わたしの日々の努力を踏みにじるおつもりっ?(怒)

 ぶっちゃけ、新手の嫌がらせかと思うよね。

 担任の先生には1ミリも悪気ないんだろーけど、わたしにとって席替えは死活問題なんだからぁ。今後の学校生活が危ぶまれる事案なんだぞぉ?

 先生の口から席替えが告げられた日には、まるで死刑宣告を受けたかのような心地。目の前が真っ暗になっていくのを感じながら、自作のクラス名簿を破りたい衝動に駆られる。

 これほど『絶望』の文字が相応しいシチュエーションもない。ほんと崖っぷちに立たされたみたいな気持ちになるよね。まぁ、じっさいに立ったことは1回もないけども。あは。

 え、なんですって?

「相手に興味ないから覚えられないんだよ。ようは気持ちの問題でしょ」ですってぇ〜?

 ふざけろっ。

 ちゃんと覚えようとしとるわいっ。この手書きのクラス名簿がお目めに入らなくってっ?

 わたしなりに努力してるんだからぁ。相手に興味がないから覚えらんないんじゃなくって、興味あるのに覚えられないから苦労しとんのじゃい。覚える気あっても覚えらんないから苦しいのんじゃあ〜いっ。あぁ〜〜〜〜〜っ!(※乱心)

 わたしは心のなかで言い訳を口にしながら、机の中にある自作クラス名簿を取り出した。

「えぇっとぉ、あの席の子は……」

 わたしは自分で作ったクラス名簿を見ながら、鞄が置かれている机の位置と照らし合わせた。

 あ、ひとりはアキちゃんで合ってる。

 もう1人のほうはカリンちゃんだった。あやうく違う名前で呼んじゃうとこだったよ。あっぶなかったぁ〜っ。

 もぉ、わたしの脳のバカぁ。

 なんで人の顔と名前くらい覚えらんないんだよぉ。わたし以外みんな当たり前にできてることなのにぃ。

 論文で使われてる英単語と研究内容はスンナリ覚えられるのに、どうしてクラスメイトの顔と名前はいつまでも覚えらんないの。こんなんだから友だち少ないんだぞぉ。ばかばかっ。おバカっ。

 わたしは誰もいない教室内で、自分の頭をぽかぽかと叩いた。こンのポンコツ脳みそっ。このっ、このっ!(殴)

「……」

 しずかな室内。

 無人の教室に無音がこだましている。

 ひと気のない教室の窓から空を見上げると、わたしの頭上には綿あめみたいな入道雲が。夏祭りを思い出させるような雲の形だった。

 ふわふわとした白い雲。

 おっきな雲の一群が空を気持ちよさそうに泳いでいる。

 どこまでも自由な空と雲。わたしの悩みなんて知る由もない入道雲は、ただただ空を気持ちよさそうに泳いでいる。まるで、クリオネが気ままに海を泳ぐかのように。

 あ、飛行機。

 空飛ぶ箱を発見。まっしろな機体が青空をかき分けるように飛んでいる。

 まっすぐ伸びる白線を置き去りにするジェット機。別に何かあるってわけじゃないんだけど、飛行機ってついつい目で追っちゃうよね。わたし、とくに航空機ファンってわけでもないんだけどね。ちっちゃい男の子は好きそうだけど(※偏見)。

 飛行機には夏の空がよく似合う。

 空をかき分けるように飛ぶ姿には、何者にも囚われない自由さがある。鳥が空を飛ぶ姿と似ているような気がする。

 空も自由。雲も自由。夏を駆け抜けるように飛ぶジェット機は、地上の縛りから解放された数少ない存在。この青い空を飛んでいる間だけは自由でいられる。あの鉄の箱が自由に見えてしょうがないのは、きっと俗世に人間のしがらみが多すぎるから。

 青空と白雲。

 雲をかき分け、青をかき分け。ひこうき雲が青空を二分する。ジェット機が残した置き土産。

 流体力学が自由を担保する。ベルヌーイの定理が鉄の箱を自由にしてくれる。たくさんの乗客と期待を乗せたジェラルミンは、両翼で雲をかきわけてトンボのように空を飛ぶ。夏を象徴する入道雲を横切ったあとは、どこまでも飛んでいけそうな気がする——

 頭の上に浮かぶ白い雲をただ眺めていると、わたしの耳に夏の空を思わせる声が届いた。

「ミキぃ、おっはよ〜」

 わたしは声がするほうに顔を向けた。まるで、ひまわりが太陽のほうに顔を向けるように。

「おはよ、アンナ」

「今日も朝はやいねぇ〜」とアンナが言った。「うちの学年だけで言えば、ミキが皆勤賞じゃなーい?」

「どうだろうね。朝練で登校時間はやい人もいるし……」

「部活やってる人はねー。あ、さっきもリリカちゃん見かけたよぉ。ほら、吹奏楽部の」

「そ、そうなんだ……」

 わたしのクラスへとやって来たアンナは、しぜんな動きで近くにあるイスに座った。別のクラスなのに彼女は教室の空気に溶け込んでいる。

 アンナの言葉に反応するかのように、どこからか楽器の音が聞こえてきた。

 管楽器の音、弦楽器の音。頭上に降りそそぐトランペットの音は、ほかの楽器の音の中でも一際おっきい。楽器を吹く立ち姿が脳内でありありとイメージできる。ちなみに、わたしはリリカちゃんが誰か分からない。

 わたしの隣の席に腰をおろしたアンナは、鞄が置かれている机のほうに目を向けた。

「あ、アキちゃんたちも来てるんだぁ。2人とも朝はやぁ〜い」

 アンナは向こうを見ながら、ひとりごとのように呟いた。『ひとりごと』と呼ぶには大きな声だったけれど。

 わたしはアンナの呟きを聞いて驚いた。

「ね、ねぇ、アンナ……」と、わたしは言った。「鞄ちらっと見ただけで、持ち主の名前わかるの?」

「え、うん。あのストラップ付けてるの、美術部のアキちゃんでしょ?」

「えっ」

 アンナはさも当然のことのように言った。まるで、わたしのクラスメイトの名前を覚えているのが当たり前かのように。

 な、なんですとっ?

 アンナ、そういう覚え方してるんだ。人と持ち物を関連づけて覚えてるんだ。

 たしかに考えてみれば、その覚え方も1つの手。わたしみたいに人の顔と名前が一致しないなら、いっそ持ち物と結びつけるのも良い考えじゃん。なんで今まで考え付かなかったんだろ。

 やっば、目から鱗。

 わたしの頭の中でコペルニクス的転回が湧き起こった。完っ全に目からウロコだよっ。

 あぁ、なんか視界が一気にひらけた気分。天動説から地動説にすり替わったみたいな衝撃なんだけど。きっとコペルニクスさんも当時こんな気持ちだったのかもね。知らないけど。

 や、ほんと知らないけどね?

「アンナはスゴいね……」

 アンナの物覚え技術に感服して、わたしは思わずポツリと呟いた。友人への敬意を含んだ吐息が辺りに溶け出した。りすぺくと。

「あは。なぁに、いきなり?」

 わたしからの賞賛を受けて、アンナはからからと笑った。まるで、ひまわりがお日様に向かって咲いかけるように。

「アンナはスゴいよ。ほんと尊敬する……」

「んふ、尊敬されちゃったぁ」とアンナが言った。「ミキって時々へんちくりんなこと言うよねぇ。急にリスペクトすんのウケる〜」

「へんちくりんって……」

 し、失礼なっ。

 わたし、おかしなこと言ってるつもりないし。

 この不肖ワテクシめ、至って健全で普通な高校生その①でございますのでね。へんちくりんなどと言われるいわれはなくってよっ?

 アンナの礼を失した発言はさておき、今朝は大切なことを学べた気がする。わたしの目の前でからからと楽しそうに笑う友だちから、今後の学校生活を平穏に過ごすヒントを教えてもらった。社会性を身につけためのヒントを1つ教えてもらった。そんな気がする。

 あぁ、神さま仏さまアンナさまっ。

 わたしがしみじみと感慨にひたっていると、教室前方から室内に入ってくる人影が2つ。つい先ほど見かけたシルエットが視界の端にチラついた。

「あれぇ、アンナじゃん。おっはよー」

「まぁーたミキちゃんに絡んでんの〜?」

 購買に行ったアキちゃんとカリンちゃんが教室に戻ってきた。2人の手にはそれぞれ紙パックのジュースが握られている。

「あは、べつに絡んでないよぉ。有線イヤホンじゃないんだからー」

 アンナがすかさず冗談を返すと、教室の中は笑い声で満たされた。先日と同じく、怒涛の女子トーク(?)が始まった。

「ウケる。イヤホンのコードってさぁ、鞄に入れっぱなしだと終わるよねー」

「わかるわー。いちいちコード絡むのイヤだから、ウチもうワイヤレスしか使わない」

「ワイヤレス楽だよねー。授業中も音楽とか聞いてられるしさー」

「あ、わるい子だぁ。風紀委員のクセにぃ〜」

「や、数学の時間だけだから。ほかの授業は超マジメだからね?」

「あは、自分で言う〜」

「数学って眠たくなるよねー。なんかθ波みたいなの出てんじゃなーい?」

「ねー、ほんと。眠気さそわれちゃうよね〜」

「数学に限らず、うちはいつでも寝る準備万端だけどー」

「んふ、自慢することかー?」

「あたし今すでに眠いんだけどー。もうおうち帰っていいかなぁ?」

「まだ来たばっかじゃーん。今日7限まである日でしょお?」

「いやぁ、言わんといて〜。詰め込み教育ほんと許すまじ〜!」

 頭を抱えるカリンちゃんをよそに、アキちゃんがコチラに話かけてきた。

「ミキちゃんって頭いいんだよねー。ふだん塾とか通ってるのー?」

 わたしは首を横に振って否定を示した。

「うぅん、とくには」と、わたしは言った。「家で教科書ひらくくらいかな。勉強するの別に嫌いじゃないから」

「え、マジで。勉強キライじゃない人類とかいるのぉ?」

「い、いると思うけど……」

 アキちゃんの驚いたような表情に釣られて、わたしは未だに慣れない苦笑いを浮かべた。とことん愛想笑いがヘタな女の図。

 人類て。

 勉強きらいじゃない人間サピエンス、ここに1匹おりますけど?

 わたしが内心うろたえていると、隣に座るアンナが口をひらいた。まるで、こちらに助け舟を出すかのように。

「ミキはデキる子だからね〜。アガメタテマツルがいーよっ」

 これみよがしにムンと胸を張ったアンナは、まるで自分のことのように誇らしげだった。えっへん。

「あは、なんでアンナが誇らしげ〜?」

 アンナの自慢げな振る舞いをキッカケに、教室内は再び橙色の笑い声で満たされた。アキちゃんもカリンちゃんも楽しそうに笑っている。

 授業が始まる前の、わずかな休み時間。

 まだ早い朝の時間を満たす笑い声。オレンジ色をした声が何層にも重なり合い、頭上から降りそそぐ楽器の音と混ざり合う。笑いが朝の調べに溶け込んでいく。

 わたしよりも心の機微きびさといアンナからは、この先も大切なことを学べそうな気がする。

 ついつい学校の人間関係をおろそかにしちゃうわたしは、アンナ先生から人付き合いのイロハを学んだほうがいい。『人間Wikipedia』って言われて、内心ひそかに舞い上がってる場合じゃない。俗世のしがらみと無縁な鉄の箱に憧れてる場合じゃないんだっての。ポエム星からやって来た激痛ポエマー(笑)じゃないんだからぁ。まったくもぉ〜っ。

 わたしは周りに合わせて笑ったあと、青空を映す窓の向こうに目を向けた。

 入道雲とひこうき雲。窓の外では先ほども見た入道雲が浮かんでいて、すぐ隣には消えかけのひこうき雲が伸びている。うっすらと消えかかった細雲を見つめながら、わたしは互いに混ざり合う音に耳をすませた。


 数人分の笑い声が朝の日差しに溶け出した。

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