気鬱さという試練。自然。
ずぶずぶと沈んでいるとき、何かに救いを求めたい。助けてほしい。もう、こんな世界。。
人間誰しもに与えられる“試練“というものがあるらしい。その中に「気鬱」というものも含まれると思っている。物理的な大きい壁でなくても確実に存在している暗く、でかでかとした壁。これが試練じゃないというなら何なのか。
わたしは毎日「気鬱さの中で生きる」という“試練“に立ち向かう勇者の気分でそれと闘っている。それは他人からは全く見えていないかもしれない。むしろ「なんか悩みとかなさそう」とか言われたことがある。(そのときはさすがに驚いた)
頑張っている、というのは目に見える必要があるのだろうか。人は勝手に他人のことを頑張っている・頑張っていないなどと判断するが、誰しも目に見えない闘いがあるだろう。そして勇者にも色んなタイプがいて、闘い中に心の内をぎらぎら出す人もいれば全く出さない人もいるのだ。
わたしは気鬱なとき出来るだけ自然に触れたい。自然を眺めていたら自分の悩みがちっぽけに見える、とよく言われているがそういう理由ではない。悩みがちっぽけに見えるなんて一瞬だけで、後で現実に戻ると何も変わらないから。
じゃあなぜ自然に触れたいのか。
あるときあまりにも疲れていて、幸いにも心配してくれた人が森へ連れて行ってくれたことがある。うとうと寝ながら移動し、車を降りるともう森へ着いていたな。
そして車から降りると、そこにはただただ自然が“あった“。何にも揺るがない佇まい。わたしを普段縛り付けている変な価値観や人の顔色を伺う日常も、森が相手なら必要ない。疲れてたんだなあ、と思ったら涙が出てきた。そしてしばらく泣いた後、森の水場に入り子どものように遊んだ。
壮大な自然を目の前にしたとき、人の心は自然な状態に返るのではないかと思う。不自然な自分から一瞬解放され、目の前に広がる存在に何かの感情を抱く。悲しみ、寂しさ、喜び、愛おしさ、怒り、癒し、、自然を見て涙するのは、助かりたいという気持ちの表れかもしれない。
動けない、遠い、時間がない、そういう人はyoutubeで自然を検索してみてほしいです。ネットで検索すると写真家が撮った素晴らしい自然の写真も溢れています。わたしもそうしています。とにかく自然に触れるということが、闘い方の一つなのです。
今日もどこかで溺れそうな人がいるのを知っている。同じ系統の勇者達がいるから、わたしも頑張ろうと思う。