見出し画像

言葉で人を傷つけるのは良くない、と押し付けるのはいいのか

 言葉で人を傷つけてはいけない、これはよくわかる。youtubeで流れてきたショート動画に釈迦の教えというものがあった。人に批判をし過ぎてはいけない。相手を傷つけることは取り返しがつかないというものだ。しかし、しかしこの考え方日本的もしくはアジア的ではないかと思うところがある。決して海外経験があるわけではないが、言葉による暴力をことさら悪にするくせに体罰は認めてしまう態度は不穏だ。そして同じように接触を伴う犯罪も卑劣と言いながらなくせない。この辺り、どうなっているのか。
 問題は二つ。
・なぜ言葉の暴力を重く、物理暴力を軽く受け止めるのか。
・なぜ言葉の暴力や痴漢などの暴力は無くなるように対策されないのか。 

 一つ目の問いは私個人の感想に伴う問題提起であるため、問題自体が空虚ではある。それでも私論を述べると、ひとまず体罰を軽んじるのは自分が受けた暴力を間違っていると言えない被害者心理があるからだ。被害者はそれを不幸ととらえると自分が惨めな存在であるように感じてしまう。そして暴力はそれに悪乗りする。いや、してきた。 
 さらに言葉の暴力を重くとらえる、特に放送業界のネットいじめへの批判はゆるぎない正義として振りかざされる。確かに暴言は無益だが、それは相手のことを結局知らないため、愛情関係でない対象に関わることが無駄だというだけで、お互いに、感情を掻き立てあうのは無益だ。あえて言うなら暴言は良くないということと暴言自体は、同じくらい相手に対して無関心で、社会の問題解決に貢献しない。それでも暴言をことさらに批判する人は強者の立場であるように感じ、暴言は姿を現さない弱者の立場から吐かれる。つまり暴言を批判するのは強者の立場から、弱者のなけなしの暴力である、石のつぶてを奪おうとしているに過ぎない。

 二つ目の問題の改善がされないことは、おおむね問題自体が多く小さいため発見して摘まみ上げることが困難だからとされている。収穫した膨大な穀物の中から不揃いのものをピッキングせよというように聞こえている。しかし日本では多くの軽微な犯罪が行われずに済んでいる。落とした財布やスマホはほぼ必ず手元に戻って来る。善意を喚起され、罰が当たるかもという不安を掻き立てられるきっかけは、満員電車や中学校の休み時間に存在しない理由はない。
 この一見おかしな二つの問題、つまり痴漢と暴言はすごく似ている。日常にストレスを感じ得しそびれていると感じている人が、誰かを傷つけてストレスを昇華させる。女性しかいないスーパーマーケットにクレームとして怒鳴りに来るおじさんもしかり。
 問題解決は簡単だ。こういったヤバい人たちに対して、もっと大変な人生があること、犯罪はリスクが高くうまくいかないことを周知させ、同レベルの善良な友人を作ることだ。ところがこの同レベル民に対して世間は評価が低い。彼らほど献身的で安全意識が高い人たちもいないというのに。高レベル民をあてがうので、余計な劣等感が生まれそこでさらに軋轢が生まれる。
 つまり痴漢と暴言おじさんはニートが友達になるのが良い。こういった対策は古い会社の中ではごく自然とあった。平成に入ったころのバブルの後始末でリストラとして整理解雇を食らったおじさんの多くは、経済的生産性は低いが友達になるのが得意で、どこかでヤバいことがあるとそれなりの立場の人にチクれる人だった。彼らの給料は年功序列で結構よかったため、整理対象になり会社は自浄能力を失い働きにくくなった。
 今の社会ではニートのお友達になります能力や、まぁまぁ能力は軽んじられる。そこに正当な対価を払う気もないだろう。つまり失った自浄能力への認識が不足しており、代替人材の素養を把握することが出来ず、予算を付ける気分になれない。そのため事件に対する解決は行われない。しかし、凄惨な事件ですら、あいつに友達がいたらな、といつも思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?