日常に埋もれたものの価値
小戸公園編④ (小戸公園編③はこちら)
小戸公園にある七つの古墳を探して、まず七つのうち四つがある東側丘陵を歩いた。
だが小戸大神宮以外は場所さえわからず、境内にある「安産石」だけを、石室の石材の一部と自分の目で確認できた。
周辺にある"それらしい石"が、古墳と関係があるのかないのかまったくわからないまま、東側丘陵を後にして、三つの古墳があるはずの妙見岬に移動した。
小戸妙見神社の鳥居をくぐり、整備された道を上るとすぐに古墳はある。
妙見岬の三つの古墳のうち一番北に位置し、一番分かりやすく石室の一部が残っている。
妙見神社の南側、斜面が1メートルくらい下がったところにある石群が、横穴式石室の基底部の石材だ。
注連縄が張られている一枚石が石室の奥壁である。
これは北側に位置していて、玄室は南側に開いていたとされる。
南側に縁取るように小さな石で囲ってあるのは、実測図に記載がないので、のちに置かれたものだろう。
奥壁の注連縄がかけられた部分は、資料の図によるとサメの背びれのような形に突起している。
この奥壁の石は横幅2メートル弱、高さ1メートル弱で結構大きい。
石室の石材と知らなければ、石そのものに神性を感じるかもしれない。
東側の石も一枚石で、奥壁よりはだいぶ小さいが、横幅1メートル強、高さ0.5メートル弱である。
西側には幾つかの石が積まれているが、このうち小石がたくさん載せられている平板な石だけが、最初の九州大学の調査時点の写真に写っているため、この右にある比較的小さい石は、調査後に積まれたものだ。
石室の南側斜面にも三つの石が固まっているが、これは石室を形作っていた石材の可能性が高い。ただ、どの部分に使われたかはわかってないらしい。
この三つの石は、九州大学の実測図を見ると、もっと互いが離れた位置に描かれている。おそらく調査後に誰かが移動させたのだろう。
(横穴式石室石材と妙見神社を南側から撮影。妙見神社は白いテント内。)
この古墳のそばに妙見神社はある。
最初に妙見神社が鎮座した時、恐らく墳丘はすでになかったと思うが、古墳の原型がどれくらい残っていたのだろうか。
すでに現在と同じ状態だったのだろうか。
そこに古墳(墓)があると知っていて、妙見神社は造られたのだろうか。
それともこの場所が、墓や神社を作るのに意味を持っていたのだろうか。
とても興味深い。
妙見岬にはあと二つの古墳があるが、岬の中程にあると思われる古墳は、最初の調査以降は存在の確認がとれていない。
もう一つは妙見岬の古墳の中では一番南に位置し、西側の海に面して、側壁の上端の一部が地表に露出している。
おそらく、これである。
資料によれば、すぐ脇にもう一つ石があるはずなのだが、落ち葉が積もっていてわからなかった。
以上が私が自分の目で見ることができた、小戸古墳群だ。
古墳と聞くと小山のように盛り上がったものと思い込んでいたが、墳丘はなくなって石室や石棺のみが剥き出しのまま残っていることを初めて知った。
また、古墳のすべてが保護されているわけではないのも意外だった。
福岡市には有名無名の、多くの古墳があることも知った。
遺跡も、墳丘のなくなった古墳も、その発見は開発による掘削時が多いらしい。
なので、開発を中止するほど貴重な遺跡でない限りは、発見=調査後消滅だ。
私が住む地域にも弥生時代から古墳時代の住居遺跡があったが、それは地下鉄工事で発見され調査され、すでにない。
それを考えると、小戸古墳群は開発というより公園整備の際に発見(確認)され、出土した埋葬品の類は九州大学が保管し、現地は保護されてはいないものの失われもしていない、案外幸福(?)な古墳なのかもしれない。
素人がただの興味で近づいて見ることができるのも、とてもありがたい。
空想を広げることもできるし、今回のことで福岡の古い時代に興味がわいた。
15年程福岡に住んでいるが、こんなに面白い土地だと気づかず、今までもったいないことをした。自分の興味の向くまま、少しずつ面白さを掘り下げていきたい。
ところで今回、森の中には立派なクモの巣が多くて本当に参った。
記録的な暑さだった夏を過ぎ、少し涼しくなってから立派なクモの巣を多く見るようになったが、時期的なものだろうか。
巣に引っかからないように歩くことに、一番神経を使った気がする。
たぶんひとつも壊さずに済んだはずだか、森の中では私の方が侵入者。
というより、クモの巣を頭から被るのは嫌なので、自分のためにも森を歩く時期は考えた方がいいのだろうか…
クモの巣が少ないのはいつなんだろう。
資料『市史研究 ふくおか 7』
『新修 福岡市史 資料編 考古3』
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?