長谷川さんじゃないほうのばーちゃんの話
私には「樫本芹菜」という名前のほかに、もう一つの名前がある。
「長谷川さんのお孫さん」
長谷川はサッカーを始めるきっかけになったばーちゃんの名字。地元女子サッカー界でのばーちゃんの顔が広すぎて、なかなか樫本の名前が認知されない。
選手としてサッカーを始めるきっかけを話す機会はたくさんあるので、こちらのばーちゃんは知る人ぞ知る的な存在。でも今日は、あんま語ってこなかった方のばーちゃんの話。
樫本のばーちゃんとの記憶はえらく破天荒なものが多い。
「女の子なんだから手伝いをしなさい、海人(弟)は男だからしなくてもいい」
そんなんだったら女なんてやめてやる!と、泣き叫びながら言い返したことを今でも鮮明に覚えているし、見た目から振る舞いまで、なにからなにまで女の子を感じさせるものを嫌うようになった。
怒鳴り合い、はたきあいの喧嘩なんて、毎日のように繰り返した。
共働きの両親の代わりに面倒をみてくれていることへの恩義は感じつつ、優しくて大好きな長谷川のばーちゃんと比べては、この人は本当に子育てを経験してきたのかと、こどもながらに不思議だった。
高校での寮生活のスタートと同時に家を出てからは、当たり前だけど、ばーちゃんと顔を合わせる機会はどんどんなくなっていった。
2017年に海外から戻ってからもほとんど実家には帰っておらず、今年の正月、約5年ぶりにばーちゃんに会った。数年前から認知症が進み、もう家族のことですらよくわかっていなかった。
物心がつくにつれて、樫本のばーちゃんに関してはかわいそうという気持ちが大きくなっていた。時代錯誤な発言も、それは彼女自身がそういう時代を必死に生きてきたからこそということを理解してきたからだ。
そんなばーちゃんがとうとう施設のお世話になることになった。
責任放棄になるのではないかと、母はギリギリまで決断に悩んでいたが、ようやく決心がついたようだ。
ばーちゃんの部屋を弟が使うらしく、部屋の整理をしていた母から2枚の写真が届いた。
「ヤタガラス」千羽に託して。
そう題名づけられた作文を通して、初めてばーちゃんの想いに触れた瞬間、涙が止まらなくなった。
最後の「がんばれ!芹菜」の一言。
長谷川のばーちゃんは私の人生にサッカーを与えてくれたけど、「芹菜」という名前をくれたのは樫本のばーちゃん。
「あんたの名前はね、春の七草のせりとなずなからとったんよ」
この記事を書こうと決めたとき、一番にフラッシュバックしてきた記憶の中でばーちゃんが教えてくれた。
周りの大人からはきれいな名前だねと褒められることが多かったけど、当時はセロリと弄られたりすることも多く、あまり好きにはなれない名前だった。
そんな印象が大きく変わったのは、アメリカに留学してから。セリナという名前は向こうの人たちにとっても馴染みやすく、日本での本当の名前はなに?と、自己紹介の後に聞き返されることもあった。
兄弟の中で唯一ばーちゃんが名付け親であり、そして海外へ渡ったのも自分だけ。
しかも、これでもかというほどに昔堅気な人が海外でも通用する名前をくれたことに、「世界で足跡を残せ」と運命から言われているかのような錯覚さえも覚える。
残念なことに、今のばーちゃんには芹菜という孫の存在がわからないし、今更どれだけお礼を伝えようと思ったところで、もう届くことはないかもしれない。でもね、樫本の家系って基本宇宙系なので、きっと頑張り続けた先でミラクルを起こしてくれるんじゃないかなと。
学生の頃はバレーボールチームのベンチを温めるのが得意だったと、本当に自分のばーちゃんなのかと疑うような発言を飛び出す人だったが、きっと一度くらいならね、スタジアムにも来てくれるよな。
背中を押してくれる存在に恵まれる人生ではあるものの、まさかこの人にまで、それもこんな特大級の起爆剤をぶち投げられることになるとは想像すらできなかった。
「長谷川さんのお孫さん」に負けんくらいに「芹菜」の名前をたたせるけん、ちゃんと待っとってな。
p.s. 料理だけは小学生の頃から好きやったで。笑
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