![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/145163588/rectangle_large_type_2_bbe3b6668bbf4eded8b2b32ae2dbee2c.jpeg?width=1200)
道を切り拓く
つい先日のこと、トレーナーとして生計を立てている友人二人と身体を動かしていた。
ぼくは身体感覚の鋭さとその言語化が得意なので、それをキーとしながら、二人があーだこーだと擦り合わせながら次のアプローチを考えてくれる贅沢な時間。
彼らが普段一緒にやっている人とはまた違うタイプなこともあり、この日を堺にまた大きなアップデートができたのだが、それにしても気になることが一つ。
セッションの間、トレーニングによって感覚が変わりすぎることがないよう、二人が執拗なくらいに気にかけていてくれたことだ。
前十字のリハビリでとことん身体の癖と向き合ってきたからこそ、この意味が理解できる。
世の中では歪みとして定義されるような状態でも、実は競技をする上で自分の形をつくりあげてきたものでもある。
一時期、血を抜く治療法にハマっていたことがあるのだが、足の血を抜いた後にいつものエクササイズをやってみたところ、どうしても足裏をきれいにつけずに悩んでいたのが嘘のように改善した。
部分的に血を溜める(この表現で合っているのかは定かではないが)ことでよくも悪くも自分の型をつくっていたのだろう。
話が脱線してしまった上に、私の場合は改善してよかったこととしての例だが、型をつくるということはパフォーマンスの波を抑えることに役立つ。
特にサッカーのシーズンはほぼ一年を通して跨ぎ、毎週末に試合がやってくる。
ぼくのように向上のために実験を厭わない、失敗だってへっちゃらみたいなタイプは非常に使いづらく、逆に向上の幅がそれほどないとしても、毎回ある程度の算段が立つ選手の方がチームとしても安心できる。
「考え始めたアスリートより、考えていないアスリートのほうが使いやすいし強い」
考えていないというと語弊があるが、自分の持てるものに腹を括って闘うということなのだろう。
実際のところは言葉の通りで、ピッチに立ち続けるのは周りのみんなで、ぼくは前十字を切るばかりか、オペ回避のためにまだ復帰できないでいる。
世の中的にみれば、大馬鹿ととれる選択をとっていることは重々承知はしている。
ドイツで周りの目を気にして自分を見失っていたとき、「嫌われる勇気」から多くを学んだ。
いまでは1ミリも気にすることなく生きられるようになりました!とまでは言わないが、当時と比べるとずいぶんと図太くなった。
いまはやってみる勇気。
人生一度きりという、最初にして最後の時間を賭けた実験。
オペをしないこと、この年齢期でこれだけの長い期間を休むという選択が、今後の人生でどう響くのか。
この世に結果が保証された挑戦など存在しない。
結果が保証されているのであれば、それは挑戦とは言わないからだ。
ぼくは大抵の人が選ぶことのない保存療法の道を選択したことで、自ら障害を増やしているわけだが、手術を受けるにしても、その道での挑戦はある。
だから、ぼくにとってはリスクという意味ではどの道であっても大差はなく、その中で自分のコントロールできる要素をより多く含むものの優先度があがるだけのこと。
だって、仮にその挑戦がうまくいかなかったとして、誰かのせいにして嘆くことが人生においての一番の無駄だと思うから。
自分にやれることを必死こいて考えてトライしまくって、できないことは素直にお願いして、それでもだめやから次の手という順番なら納得はいく。
これは最初にnoteをあげた頃から変わっていないし、1ミリもブレないどころかより硬い意志となっている。
人間である以上は自分の心を守るためのフィルターが作動するもので、この記事でまとめた内容も、本当の意味で客観視をすればぼろぼろなのだろう。
それでも自分の人生は自分だけのものであり、ぼくはぼくが生きたいと思える人生をつくりたいからこれでいい。
例えカーテンコールのない顛末であったとしても、それもまた人生と笑っていけると思う。
まあそう言いながらも、最後におれはピッチに立つんだけどね。
いいなと思ったら応援しよう!
![Serina Kashimoto](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/143593686/profile_d0b8c9514603556165276c2773ae81f2.jpg?width=600&crop=1:1,smart)