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「失敗」から学ぶ、三度目の正直

昨年の9月に前十字靭帯損傷を診断されてから、保存療法による競技復帰を目指してきました。

その中での細かな気付きはたくさんありますが、今回の挑戦での一番の成長は失敗の良くも悪くもをきちんと学び、その上でゆっくり丁寧に試行錯誤してきたことです。

「失敗」という言葉だけを聞くと、ネガティブな響きがあり、できれば避けたい心理が働くものですが、失敗は成功の秘訣であることもまた事実です。

それを理解しながらも、なぜ人は失敗を恐れるのか。

私自身のこれまでを振り返り、それは失敗からの学び方や活かし方を知らなかったからだと考えています。

まだ少しづつではありますが、失敗の中身を振り返り、例えそれが自身の能力が劣る結果であっても、それが恥ずかしいものではなく伸び代だと、ワクワクする気持ちを持てるようになってきました。

今回は二度目のリハビリ生活での心境変化の過程や学びを振り返りながら、私なりの失敗の科学、「失敗から学び、成長するためのアプローチ」について話していこうと思います。

「失敗」から始まった挑戦

膝崩れを起こした日の練習は、なんとなく空気の温度が上がりきらない、全体的にぬるーっとした印象を受けるものでした。

これまでの経験から、こういった日はできるだけ全体が見える位置を取りながら声で統率を図ることを決めており、この日もそのようにしていました。

最初は辛抱強く、周りに声をかけながら。

最低限として、負けないための策を取りながらも、自身の中で負けず嫌いの熱がふつふつと湧き上がるのを感じていました。

最後のゲーム形式でのメニューでのことです。

自チームは全体的に引き気味で、プレスの脅威感は一切なく、ゲーム状況的にも劣勢な状態が続きました。

こういった場面において、周りがついてこれない状態で一人追いかけましたところで、それはただの独りよがりなプレーとしかなりません。

そのようなことは今まで散々繰り返してきたので、まずは一番後ろからどんどん前に押し出していくことを考えました。

立ち位置の修正だけでなく、時には鼓舞の声も交えながら。

全体がうまくフィットする瞬間もあれど、切り替えのスピードや球際の圧力など、自分ではどうしようもできない部分が目立ってきました。

それでもその日最後のセットまでは、辛抱強く粘ってみましたが、最後の最後で熱が爆発してしまいました。

前に出るよと、一声かけて、最前線でボール奪取を狙いにいきます。

そのまま少し進んだところで、相手チームのポゼッションに着いていこうと方向転換したところで膝を捻り、そのまま地面に倒れ込みました。

一度目とまったく同じ、右方向への切り返しでのこと。

「まだ修正しきれていなかったか」という思いが頭に浮かび上がります。

痛みは一切ありませんでしたが、一度目よりも派手に捻ってしまっていたため、「この挑戦もここまでか」と、冷や汗が止まりませんでした。

保存でいくとドクターに伝えたとき、半月板を損傷するようなことがあればオペをしたほうが良いと言われていたからです。

しかし、落ち着いて身体に触れながら、いつものようにチェックしてみると、これは大丈夫だなという確信を得ることができ、翌日の診断でも問題はなさそうとのことでした。

ほっとしたのも束の間。

いくら自分の感覚が大丈夫だと言っていたとしても、「膝崩れという失敗」の事実は誰の目から見ても明らかです。

失敗をただの失敗でなくすこと、この失敗があったからこそより成長できたと言えるように、この瞬間からひたすらに考えるようになりました。

当時の私はどうやって押し通すかを考えるのに必死でしたが、いま振り返ると、この状況こそが大きな成長のきっかけとなったのです。

サッカーはチームスポーツですので、成功も失敗も、はっきりと個人の結果として判別することが難しいところがあります。

しかし、今回の件に関しては、前十字が切れたままの状態で復帰したいという「私自身の挑戦」において、他の誰でもない「私」が膝崩れを起こしたことで、「私自身の失敗」として受け入れざるをえないスタートとなりました。

これまでのキャリアでも、何度も自己分析的振り返りを行なってきましたが、このスタート地点の違いこそが、今回の経験での学びをユニークなものにしてくれたのだと考えています。

正しい正当性バイアスの使い方?

前回リハビリ時は未知な世界としての挑戦でしたが、今回は受傷から復帰後までという実体験からの貴重なデータがあります。

私にとってはこれだけでも再挑戦するには十分な理由でしたが、周りからすればそうもいきません。

「失敗で終わってしまったことに、なぜ再び挑戦するのか。」

「膝崩れを起こしてしまったのだから、もう絶対に無理だ。」

さまざまな言葉をいただきましたが、結局これらに答えるには結果で示すしかありません。

今回は自分の感覚のみに限らず、きちんと客観的数値も出していこうと、チームトレーナーや友人にサポートしてもらいました。

また、「前回経験を活かす」という点において、まずは視点を増やしながら振り返ってみることにしました。

ざっくりとした当初の振り返りは以下のようになりました。

よかった点:
・徹底的に自身の身体の歪みに着手したことで、自身の身体に関しての知識と信頼度が上がったこと
・実践の中で一つづつ不安点を解消しながら、コンディションをあげていけたこと

改善点:
リハビリ時は治療やケアがメインで、実践の中で必要な筋力などを戻すという、通常の靭帯断裂後のリハビリ過程とは異なるプロセス
・特にリハビリ期における、チームスタッフとのコミュニケーション

これらを受けて、まずここで強調したいのが太字部分です。

こちらは、前章で話したように、そもそも今回の一連を「失敗」として受け入れることができていたおかげで捻り出せたものだと思っています。

よかった点であげているように、長い時間をかけて培ってきた身体感覚は、いまでは私にとって大きな自信となっています。

その武器がまさか、知らずの間に偏っているなどと認めるには、いままでの私にとっては簡単なことではありませんでした。

序章において、なぜ人は失敗を恐れるのかという問いを立てましたが、失敗経験を積みながらも、その経験をうまく活かせないことが問題となることも多々あると感じています。

私自身がそうであったように、失敗=自身の能力の欠如であり、恥ずかしいものだという心理が働く時に考えるのは、なんとかしてその行為を肯定しようとすることです。

これは自分の心の安定性をとるためには必要なことではありますが、本当の意味での学びを得るには、できるだけ客観的に、良くも悪くもをきちんと判別することが大切です。

これを書いているいまでも、すべてにおいて冷静に、このような考えを持って行動できるかと聞かれると、自信はまだありません。

しかし、今回に関しては、どれだけ認めたくなくとも、絶対に言い逃れができない形で失敗を犯したことで、一時的でも自己肯定的なものから自己受容的考えに切り替えざるを得ませんでした。

また、明白な失敗からまた挑戦を続け、そして乗り越えていくには、失敗経験からすべてを学び、徹底的に自分自身をアップデートすること。

失敗を認めつつ、ある意味で失敗を取り消そうとする、相反する二つがせめぎ合ったことが、ある種の覚醒に繋がったのでしょう。

ここから、私の頭の中はどんどんとアップデートされていきます。

言葉で振り返る自分発見の旅

「助けられることに慣れすぎているから気をつけろ」とは、私の仙台時の師匠の言葉。

その言葉の通り、いつの時代も優秀な仲間に恵まれ、なにか違和感を感じることがあれば決まって誰かが近くでサポートしてくれました。

しかし、今回はそういった人たちとも距離ができ、コロナ禍での自粛生活の時のような、自分の世界に篭り、感覚や言葉と向き合う時間が増えました。

そんな中で時折、失敗が許されない挑戦の道をたった一人で歩いているような、そんな気持ちに苛まれる瞬間がありました。(いまでも一つ一つの事象を共に一喜一憂してくれている仲間たちには申し訳ないですが。)

そんな考えを頭から振り払うかのように、試行錯誤のための思考と実行に、とにかく没頭してきました。

初めの頃はとにかく、情報を漁りながらピンとくるものを片っ端から試してみました。

持ち前の勘所の良さと、これまでの経験が功を為す部分もありましたが、それはただひたすらに物を置き並べているだけで、目指すべき方向への積み重ねとしての手応えはあまりありませんでした。

なにか根本から変えねばならないと、矢印を変えてみたところ、先輩に言われた「そろそろ自分カスタムしていこう」という言葉を思い出します。

これは昨年、身体操作に関する話の流れで出てきたもので、その言葉の響きに魅了されながらも、きらきらした未来の姿を想像することができずにいました。

これまでは一流選手の動きを研究してみたり、試合の中で必要とする動作や思考改善などはしながらも、最終的に自分がどうありたいかのような具体的なイメージがなかったのです。

まずはピッチの外でやってきたように、選手としての自分を把握することから始めなければならない。

闇雲に新たな情報を探すのではなく、これまでのやり取りの振り返りを通して自己理解を深めようと考えました。

いざ振り返りを始めると、信頼できる誰かに質問を投げかけ、自分の行動を肯定するための都合のよい言葉を引き出そうとする場面が多くみられます。

ここでのエラーは二つあります。

まず一つは、言葉の表面だけを鵜呑みにして、その裏側までを想像しながら、論理的に状況の解釈ができていなかったことです。

言葉の裏側というのはどういうことでしょう。

例えば、私が最近よく考えていることとして、長所と短所は表裏一体であり、ある条件下では誰にも劣らないような武器として輝くことがあっても、条件が変われば一転して自信を失う要因ともなることがあります。

そのため、いまはどちらの面がでているかに関わらず、常に冷静に、その裏側の状態までを見据えながら行動することが大切です。

つまり、本当に大切なことはいまどちらの面が出ているかということよりも、なぜその面が出ているのか、だから自分はどう行動すべきかを考えることになります。

返ってくる言葉を都合よく切り取って解釈する、当時の私の言葉からは、心の余裕のなさがよく伝わってきます。

一方で、一人で抱え込まず、かつ、文字として残る手段を選んでくれたことで、いま多くの学びを得ることができています。

一人で抱え込まず、自身が抱える不安を誰かにさらけ出した勇気に関しては、よく頑張ったと、当時の私を存分に褒めてあげたいです。

しかし、もう一つ欲を言えば、できれば自分が信頼する誰かではなく、その状況に関わる当事者たちとよく話ができればなおよかったと思います。

特に、当時のチームはいまと比べてよりカオスな状態で、なにが正解なのかがとてもわかりづらい状況にありました。

その中で内情を知らない第三者といくら話をしたところで、先ほどの話でした、なぜいま(表裏の)その面が出ているのかというような、正確な状況判断までは至らず、あくまで推測の域を超えることはできません。

こうして考えると当たり前のことですが、信頼関係やこれからの関係性のような様々な要因が絡むことで、実際にやってみるにはなかなか難しいことだと思います。

いまよりもっとお子さまだった当時の私には相当なことだったと思いますが、それでも本当に必要性を感じた時は、立場を顧みずに意見交換を求めにいった自負もあります。

ビビりながらも色々と挑戦してくれて、痛い想いをしながらも失敗も成功もたくさん積み上げてきてくれたのだなと、昔の私たちを褒めてあげたい気持ちにもなりました。

話が逸れてしまいましたが、こうしてデコボコな等身大の私を少しづつ見つけながら、わざわざ新しいことに手を出さずとも、もっともっと成長できるなと。

この頃には過去の失敗は恥ずかしいものではなく、自分を成長させてくれる宝物のような感覚になっていました。

過去の学び直し

「前十字のリハビリなんもやってないじゃん」という突っ込みがそろそろ聞こえてきそうなので、トレーニング視点での話に流れていこうと思います。

前十字靭帯断裂における保存療法という、世に出ている実例的データが少ない中での挑戦でしたので、ありとあらゆる手段で解決の糸口を探してきました。

前十字靭帯を損傷すると膝の位置感覚などが鈍るなどのデータもあり、感覚なんて未知なものにどうアプローチしていけばよいのかと、特に情報を求めました。

しかし、ある程度リハビリを進めていくうちに、私は新たな気づきを得ました。

それまでの私のリハビリは、過去の怪我の経験から得られた知識に基づいて、身体の歪みや動き方の癖を修正することに重点を置いていました。

しかし、今回の怪我は、単に身体的な問題だけでなく、私の思考パターンやトレーニング方法にも問題があったのではないかという疑問が浮かび上がってきたのです。

特に私は二回とも非接触によって受傷しており、身体状態と身体操作における両方での課題感は身をもって実感していたので、尚更に欠かすことのできない部分でした。

そのような背景から、これまでの身体やトレーニングに関するやり取りや、いままで指導してもらってきた内容を振り返ることにしました。

特に指導を受けてきたものに関しては確かな手応えも感じるものばかりでしたので、その内容を正しくやり直していくことは怪我予防にとどまらず、結果としてパフォーマンスも上がるはずだと考えたのです。

早速実践してみたところ、自分でも驚くほどの学びと変化がありました。

ここ数年で受けてきた指導は、解剖、認知、物理の視点をサッカーのパフォーマンスに結び付けるものでした。

まずはそれらの情報を振り返りながら、必要に応じてそれぞれの分野における基礎知識を学び始めました。

例えば、まずは動作で使う筋群を正く認識し、その後にイラストや映像などで動きのイメージや力の働き方などのイメージを掴み、それらを実際の動きの中に反映させながら反復していきます。

前十字靭帯損傷後は目に入る情報が優位になる傾向があることが報告されていることもあり、時には目をつむり、感覚的なものを磨くことを意識したりもしました。

まずは座学によって自分の都合で解釈してきたものをきちんと学び直し、ゆっくりと丁寧に時間をかけて自分の感覚と向き合うような、せっかちな私にとっては大の苦手なことにとことん向き合い続けました。

それらを繰り返しながら、あるとき、これまでの私にとって絶対的解であった師匠たちの教えにも、そのような内容や伝え方の裏には、彼ら/彼女たちがそうなるに至った背景があることに気付きます。

例えば、認知の師匠と私は目指しているサッカー感がとても似ていると感じており、特に彼が執筆したメッシ解体新書は何度も読み返してきました。

まずは上記のような学び直しを実践するだけでも、いままで感じてきたものとは大きく異なる手応えを感じていました。

しかし、あるときから、彼がメッシのどのような部分に惹かれているのかや、また、そこからどのような価値観のもとにメソッドを構築してきたかのような裏側が、彼の言葉から伝わってくる感覚を覚えました。

わかりやすくするために、ここで私が知る、もう一人のプロフェッショナルなトレーナーの言葉を比較としてあげようと思います。

彼も日本を代表する選手のパーソナルトレーナーとして務めた経歴を持ち、ひょんなことからご縁をいただき、たまに自己管理に関しての相談に乗っていただいています。

以下の言葉はある質問の流れでいただいた返信の一部を抜粋させていただきました。

「…僕も選手が納得するかたちというのを大切にしている感じです。どれだけ科学的にこれが近道だと分かっていたとしても、アスリートの1回の人生の中でどれだけ本人が納得してやるか(納得しなければ、いろんなことに制限がうまれる)が重要なので、一緒にお仕事させてもらう上では、そこを大切にします」

徹底的に自分に矢印を向ける私のアプローチとは異なり、どこまでも選手に寄り添おうとされる哲学に感銘を受けました。

一方で、認知の師匠は国や分野を問わず、様々な境界を超えながら、ものすごい熱量で自身の探究心を追いかけ続けてきたプロフェッショナル。

これは彼の中にはっきりとした理想像があり、そのために必要なことを妥協せずに取り組める鉄のような意志があってこそ為せることで、私はその境地の深みに惹かれていたのだと思います。

それゆえに、受け取る側としての私が気をつけなければならなかったことは、彼の中でのゴールが明確にある分、自分のものと比較して考える必要があることでした。

それを理解したいま、改めて彼の記事を読み返すと、理論ではなく思考の枠組みを伝えようとしていること、あくまで自分で考えて取り組んでいくことの大切さを伝えようとする言葉が随所で見つけれます。

なんのことはない、ここでも私の勝手な思い込みで、彼の研究成果の本当の価値を理解しきれず、また時には怪我というマイナスな結果を招いていたことに気付きました。

言葉の細かな部分まで理解し、自分が目指す目標からの逆算で情報を取捨選択しなければ、本当の意味で目指すものには辿り着けません。

つまり、どれだけ優秀な人や完璧な環境にいようが、自分が納得のいく自身をつくりあげるには、他ならぬ自分自身でその答えを構築しなければならないという、至ってシンプルな話だったのです。

これまでのキャリアにおける「失敗の結晶」としての前十字断裂

時は遡ること、昨年9月。

前十字靭帯断裂受傷の診断を受けた前日のことです。

シーズンを通しての疲労が見える時期もあってか、この日もまた、なんとなく空気の温度が上がりきらない、全体的にぬるーっとした印象を受けるものでした。

昨シーズンのテーマは「計算できる選手への挑戦」として、自分のパフォーマンスを波をコントロールするために振り返りから学び、そこからの逆算で対応していこうと考えていました。

その取り組みの流れから、組織としての改善が難しい時は個で解決することとして、身体のキレを出すための準備はしてありました。

攻撃陣と守備陣での対戦形式で行われたメニュー時。

全体が崩壊しないような管理を心掛けながらもなかなかゴールチャンスがつくれないことに痺れを切らし、後ろから一人で突破を図ります。

中央で数人を交わしながら、あと一人を交わせばキーパーと1vs1というところで、相手守備のスライディングでボールの軌道が変わり、追いかけようとしたその一歩目で崩れ落ちました。

「結局自分の描く理想には辿り着けないのか」と、心の奥に大きな黒いモヤモヤが広がっていくのを感じました。

私にとって身体のキレをあげること自体はとても簡単です。

認知の師匠のトレーニングルーティンと、適切なケアの手順さえ踏めば、数日もあれば身体のバネ感やキレを出すことができます。

しかし、私は元々力の加減というものが苦手で、パフォーマンスが上がる代償として筋肉系の怪我が増えたことからトレーニングを封印し、自身の身体や感覚と向き合う治療やケアに取り組んできました。

5年ほどかけて取り組んできて、身体を動かすのは脳であるという観点に辿り着き、脳ケアを取り入れ始めた頃から大きな変化を感じ始めます。

まずは筋肉の状態を感じながら緩めることができるようになり、次は骨格のアライメント調整によって、自分でも驚くようなパフォーマンスを発揮できる瞬間が増えました。

もうやれるはずだ、大丈夫と。

久しぶりの封印を解いてトレーニングを行い、その結果が前十字断裂の診断でした。

怪我からの出発ということもあり、最初は身体に関する取り組みがメインでした。

しかし、ここまでの話にあるように、あれから1年と少しが経つ中で、私の頭の中は大きく変化してきました。

受傷からの一連は、他の何でもない自分自身の人間的未熟さや、認知ミスのような様々な要因が絡み合った上での結果であることに気付いたのです。

一つは、正しい身体の使い方を無視しながらもなんとなくできてしまう要領の良さと、結果を得るまでにひたすらにやり込むスポーツ根性、そして無理を効かせられる頑丈な身体がかけ合わさって蓄積された身体の歪み。

もう一つは、身体の不思議ばかりを探究しすぎて、肝心なアスリートとして当たり前にやるべきことが頭から抜け落ちていた研究・実験。

そして最後は、二つの受傷シーンでの共通要素として、どちらもチームではなく個の力で状況を打破しようとしたそのワンプレーで膝崩れを起こしているという思考態度的エラー。

そして、これらをもう少し深堀りしていくと、単なる受傷理由としてに留まらず、これまでのキャリアで届かなかったあと一歩の原因でもあったことに気付きます。

もう少し詳しく説明すると、

・物事の表側に限らず、その裏側まで考えながら、全体としての構造を想像する力

・主観と客観をバランスよく取り入れ、結果に関してある程度の予測を立てながら実験を行う思考力

・「個」としての限界を把握する自己認知力

・目標の明確化
(膝崩れをしたら即挑戦終了というパワーワードのおかげで、脱線を免れてきたことで気付けた偶然の産物ですが。)

このような人間力、自己管理能力の欠如が、これまでのキャリアにおける引っ掛かりであり、それらを総合して生まれた失敗の結晶こそが前十字靭帯断裂損傷だったのだと考えています。

人生のリハビリ

物事には必ず理由があると信じ、今回の前十字靭帯断裂とそこからの競技復帰に関しての意味をずっと考え続けてきました。

一度目のリハビリでは、これまでの受傷歴を振り返りながら自身の身体の状態についてを学び、今回は自身の思考の偏りを深掘り。

思えば、これまで何度も内省的な振り返りをしながらも、これほどまでに選手としての自身と向き合ってきたのは今回が初めてかもしれません。

これまでの人生における決断のほとんどは選手としてのことを考えてきました。

15歳で実家を離れたとき、アメリカやドイツを経ての再び日本での挑戦など、私の人生はサッカーで構成されてるといっても過言ではないかもしれません。

人生を乗っ取ってしまうほどに大きな存在としてしまっていたからこそ、本当の自分自身と向き合えば夢が終わってしまうかのような、そんな感覚で失敗と向き合うことを自然と避けてきてしまっていたのでしょう。

今回の件ではまず「サッカーが上手くなりたい」という漠然としたものが「手術をしないで復帰する」というよりはっきりとした未来のイメージに変わり、そのためには「膝崩れという失敗」を乗り越えなければなりませんでした。

挑戦の途中では、このまま現役生活が終わってしまう想像まで考えを巡らせることもあり、そこまで行ったとき、いまいる世界が急に小さく感じ、どうなっても死ぬわけじゃないと腹をくくれた気がします。

それは、決していまの環境を軽んじる気持ちではなく、むしろ大きくしすぎていた世界を正しく認識しなおすことで、より成長のための試行錯誤を重ねていくための私なりの人生のリハビリなのです。

復帰における根拠づくりのために、アスリート的努力をきちんとするというのが今回のテーマでありながらも、内省的気付きを反映させて、その頑張り方自体は変えてきました。

いままでのように馬鹿みたいに身体を使うやり方とは異なり、部屋に籠ってパソコンとノートを開く時間は桁違いに増え、その変化に不安を覚える瞬間もありました。

しかし、いざ測定をしてみると、最終的には受傷側の方がよい数値を出すところまできて、前回の復帰時にはなかった客観的自信に繋がっています。

また、セカンドオピニオンでの診断は、前十字靭帯損傷から機能不全へと名前を変え、現時点ではどの程度靭帯として機能しているのか、また今後機能を完全に取り戻すのかはわからない状態にあるようです。

現場からすれば機能していないのであれば切れているのと同じだとことかもしれませんが、絶対にくっつくことはないという言葉から始めたことを考えれば個人的快挙です。

あまりにも私が成長しないことに前十字がブチギレて、その対価として今回の学びを得たつもりでしたが、完全ではないにせよ靭帯が復活してくれるなんて、なんと良心的な試練なのでしょう。

ミスをミスとしない、ミスすらも活かすチームとは、現所属クラブGWがよく口にしていた哲学です。

今回のミス/失敗を活かすには、まず選手としてピッチに戻ること、そしてその後までを含めてが大切です。

タイトルに使った「三度目の正直」という言葉、なぜ昔の人は三度目だと言い切れたのかと、いままでずっと不思議に感じていました。

私の物語を振り返ると、一度目は日常生活の中に突如として前十字靭帯損傷という状態となり、二度目は意図を持った挑戦の上で失敗をしました。

きっと二度目の時点でも、もう少し私の思考が及んでいれば膝崩れを回避できた道はあったと思います。

しかし、例えその道で膝崩れは回避できたとしても、いまの私が感じ取れているもっと奥底の感覚にはきっと気づけなかったのではないかとも考えています。

もっと奥底の感覚とは、個性の表裏の文脈で話をしたような、成功も失敗も、なぜそうなっているのかを感じ取る力のことです。

特に私は完全理解型のようで、少しでもわからないことがあるとそこから大きな疑問が膨れ上がり、自分を信じる力、つまり自信を失ってしまいます。

いままでのキャリアでも、なぜ今までやれていたことが急にできなくなったのか、そもそも失敗の原因が自分にあるのか、環境なにか、なにもわからない中でただ苦しんできました。

しかし、今回のリハビリ経験を経てからは、成功と失敗のそれぞれの活かし方や、自分にできることと、そうでないことの整理がつけやすくなったりと、認識の変化によって気持ちの面がかなり楽になれてきました。

だから、今後のことなんて誰にも予想はできないけど、きっと大丈夫なんじゃないかなと思っています。

「失敗」をきっかけとして始まったこの挑戦で、とてもユニークな学びを得たいま、これからどのような変化を遂げていけるのか。

まだまだこれからも「なんも理解できてないやん」と突っ込みまくるのでしょうが、その瞬間ごとに、自分や世界の姿をより正確に認識し直し、それがまた次の成長となることでしょう。

丈夫な遺伝子をくれた両親、ちょっと変わった思考を授けてくれた父、宇宙人(犬)に根気強く付き合い続けてくれた数多くの師匠や友人たち。

まだまだこれからではありますが、一旦のところ、本当にありがとう。

まずは一緒に思い描いてきたパフォーマンスを実現するという、誠に自分勝手な形で恩返しできるように頑張ります。

そして、いままでの私たちにも、ビビりながらもその歩みを止めずにきてくれてありがとう。

全員をぎゅーしてあげたくても、残念ながらそれはできないので、いまの私がまとめて全部美味しいどこ取りします!

キャリアの中で一番中途半端だったとき。
人生のリハビリがテーマな記事にぴったりかなと。

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