エッセイ:完璧主義者と60%の歩き方
どこで読んだか、最近恐ろしい文章を目にした。
参照元を忘れてしまったので原文ママとはいかないが、おおよそ内容はこんな感じ。
「よくある努力と才能の違いの話しね」と流すのも簡単だが、もう何年も同じ問題に振り回されるのもなかなか堪えるもので。
それに『今でも視界に残り続けている』というフレーズに頭の内側を引っ掻かれた気にもなった。
突然の自分語り。
僕はいわゆる「完璧主義」のきらいがある。
『完璧主義=完璧ではない』し、『完璧主義の人間がやっとの思いで作り上げたモノが完璧であった確率』を統計に取ったら泣いちゃうと思う。
もしも君が「自分は時間を掛けて本気でやれば100%のモノを仕上げられる」と考えている無自覚完璧主義者であれば、これは人生の中間テストの頻出問題なので時間が許せば目を通してみてほしいと思う。
さて、完璧主義とはどこからくる気質だろう。
アカデミックにではなく、主観の範疇で考えてみた。
①自己肯定感の低さ
あ、これは僕ですね。
自覚あります。
「他の人は自分より優れている」
「だから人一倍頑張らないと」
そうした自身への圧力が自分の能力を肯定できない所以だったりする。
でも実際は他人の脳内を見ることはできないのでかなりムダ。
『彼は自分に見えていないモノが見えているが、自分の見えるモノが見えないらしい』ということもママある。
むしろ自己肯定感の低い側が自分の不得意な分野だけを取り上げて「わあぁ!あの人はやっぱりすごい!」と錯覚してるだけなことも超ある。
というか大抵はそう。だいたいそう。
今回がたまたま向こうが有利だっただけかもしれない。
なので自分の得意なターンが来た時は、
「いや、でも、他のことはそんなにできるわけじゃないし…トータルではダメな奴だから…」
とか卑下する必要はない。
「アザース!これは得意なんすよー!」
くらいでいいのかもしれない。
最近そう思い始めた。
超、ココロ、楽!
②理想が高い
これも完璧主義あるある。
自分の実力と釣り合わない理想像を見ているから常に自分に落胆と焦燥感を抱えていたりする。
僕のことです。
出来上がったモノを見て、こんなんじゃない、まだ足りない、恥ずかしい、などといった感情を抱くのであれば君もそうだろう。
そもそも高い理想を持ってない人間は「こんなんじゃない」などと卑下しない。
周りの気楽に生きてる人間の口から出る言葉を思い出してほしい。
自分を卑下する言葉より、『こんなもんか』という言葉の方が多いんじゃないだろうか。
「できる」と「できない」の間
ネットでよく見る画像でこんな言葉がある。
いやほんとそう。
(元画像の話題は発達障害の内容のため、話題はだいぶ逸れるが)
実際、「できる」と「できない」の間には「できそうだけど難しい」が広く占めていると思う。
言葉だけで並べたら「できない→できそう→できる」だが、この道は平面ではなく「できる」のゴールは山の上に位置している。
斜面を登り続けるほど息は上がり脚は重くなり、「これくらいでいいか…」となってしまうのも想像に難くない。
そして先に頂上まで登ったアイツを見て心が折れる僕や君。
「アイツ速すぎだろー!山育ち流石〜!
でもアイツ泳げないらしいぜ。意外だよな。
え?"山を登れるんだから泳げなくてもすごい"?
ならお前にも言えることじゃん」
多分健康な思考ってこういうことなんだろうね。
「できる分布」の形
あるいはこんな例え話もしたい。
カーストやヒエラルキーと言われると、こうしたピラミッド型の図を思い浮かべる人も多いと思う。
下層が「できない」だとしたら、上層は「できる」。
うーん、果たしてそうだろうか。
僕にはこれよりひし形の方が近いようにも思う。
(ひし形は年収の統計とかで見た気がする。
横の最多層が少し低い位置にあるひし形だったような。)
(※僕は超絶文系です)
同じく下層が「できない」、上層が「できる」。
だが最も多く集まっているのは「まあまあできる」ではないだろうか。
当然統計なんて取ってないから肌感覚のイメージでしかない。
(のでアウトカーストなど詳細は度外視)
こうした考え方をした場合、「本当の本当にできない」とはどういったものか想像する。
うーん、いや…、んん〜……
ちょっと想像がつかない。
ある程度できちゃうから本当にできないってことがどういうことか、見当もつかない。
君も同じ考えに至ったのなら、
「まあまあできる」人なのかもしれない。
③失敗コワイ病
これも典型例。
もちろん僕も。
失敗そのものが怖い人は「全力を出しても実はたいしたことない自分」を直視することが怖かったりするらしい。
「まだ本気出してないだけ」なんてのはその裏返しだとか。
他にも「失敗して笑われたくない」「バカにされたくない」「ガッカリされたくない」という他者の視線が関わっている場合もある。
こっちに関しては幼少期の愛着形成や家庭環境の方が大きいだろう。
僕はこっちの影響が強め。
兄弟と比較されてきたとか、親の期待に応えてきたとか、そういう「自分以外の評価」のために自己を律してる人。
このタイプは直接話してみると、会話の片鱗からすぐに伝わってくる。
自分に厳しい自分が好きだったり。
他者にも厳しいがその割りに常識的なところが少し抜けていたり。
元が優秀なわけではなく「優秀な子の仮面」を脱げないだけなので、その歪さはわかる人にはわかっちゃう。
このタイプは容易に切れそうな張り詰めた糸の割りに地雷原多すぎて危うい。
絶対お酒飲ませたくない。
(僕は泥酔すると泣く)
あとこのタイプって、自分の弱いところを他人に見せられなかったから『ダメな自分を受け入れられると簡単に惚れる』とかの傾向ない?
めちゃめちゃ見てきたんだけどこれ?
しかしこれはイバラの道。
なぜか揃いも揃って『自分より少し劣っている異性』とくっつきがち。
更に言えば受け入れてくれる異性も『寛容だから』というより『自分もろくでもないから』ということもママある。
よって蓋を開けたら共依存のできあがり。
これまで社会からも自分からも甘やかされてこなかった人間が知ってしまったぬるま湯。
共依存の蜜の味。
ここから抜け出すのは至難なこと必至。
カウンセリングごっこをする気はないし、超絶ステレオタイプで語って申し訳ないが、無自覚な人にそんな展開が訪れた時に少し思い出してくれたら幸い。
また、「子どもの頃は優等生と呼ばれていた」なんてフレーズが刺さってしまう人は、地面を掘るなり竹藪を探すなりしてでもダメな自分を見つけて引っ張りあげてやらないとね。
誰かの評価の前にまず自分で自分を認めてやらないと、評価の基準が他人任せなのは抜けられないし。
『駄作品集』みたいな予防線を張りながら、理想に見合わない実力不足を世間に晒していこうね。
とか言って、
僕もまだまだなんだけどさ。
まとめ
君はいくつ当てはまったかな???
何かしら刺さってくれたら嬉しいな???
さて、構成も言いたいことも考えず書き始めたこの記事も、気づけば2時間くらい書いていた。
わざわざ記事にしてまとめたいほどでもなかったけど、頭に浮かぶいくつものテーマの中からたまたま選んだだけ。
べつに何かを伝えたかったわけじゃない。
ただ忘れられたくなかっただけ。
冒頭のフレーズのように、心に刺さりはしてもどこの誰のなんという話から引用してきたかまでは思い出せないのと同じ話。
誰かの人生に隅っこにでも棲みたいけれど、できれば僕のことも覚えていてほしい。
こんな文章、全然100点でも80点でもない。
とってもひいきして甘やかして60点ってところ。
でも投稿しちゃう。
最高じゃなくても、60点でも、
『なんかよく文章書いてる人』だとか覚えていてもらえる方がずっとずっと最高だ、幸せだ、と思えるようになってきたから。
noteのリハビリ効果ハンパないね〜〜