怪談「深夜のASMR」
「ASMRってご存じですか?」
――焚火の音や石鹸を削る音、耳かきの音なんて有名ですよね。心地いい音のことなんですけど、一時期はまっていたんです。ああいう意味のない音を聞いていると、寝付けないのが治るかなって。
時々見るアルファベットの連なりはそういう意味だったのか、と得心しながら私はうなずいた。
後輩のBさんは無意識なのか、安眠動画について話しながらかりかりと机をひっかいている。
「実際効果はあったんですよね。布団に入るといろいろ考えちゃって眠れないことが多かったんですけど、音に集中するとまあ、無我の境地? っていったら大げさですけど、ふっと意識がなくなって寝つけるので」
「へえ、いいじゃん。私も聞いてみようかな。何がおすすめ?」
携帯電話を持ち上げながら訊けば、Bさんは「ううん」と眉をひそめた。
「あ~……再生数が多いやつなら大丈夫かな……」
妙に含みのある言い方だ。気になる。
酒の席だったので押せ押せで理由を尋ねたところ、二度渋ったBさんは「なんてことないですけど」と口火を切った。
去年にそういうジャンルの存在を知ってから、ASMRを聞きながら寝る生活が半年ぐらい続いたらしい。
最初は耳かき、次は爪で何かを叩くやつ(タッピングというらしい)、次は石鹸削り……なんて続けるうちに、飽きてしまったという。
「毎日動画は上がるんですが、さすがに半年も聞くと飽きてしまって、珍しいのを探すようになったんです」
新しい動画を探すうちにBさんは、海外の動画配信サイトに行き着いた。それはゲーム実況がメインのサイトで、ASMRは顔出し生配信が基本だったという。堂々と顔を出し、カメラとマイクに向かって囁いたり、身近なものを使って音を出したりする、いかにも海外という感じだ。
「ユーチューブとは傾向が違って面白かったです。中には男性向けっていうか……セクシーなものもあったんですけど、それはスルーで。日本人も少しだけいましたね……やっぱり顔は出さずに、アニメみたいな絵が出てるのですぐわかります。まあ基本はヨーロッパ向けって感じでした。イタリア語やスペイン語のゲームチャンネルがメインで」
Bさんはカシスオレンジで喉を潤す。いつの間にか小声になっていたので、私はぐっと身を乗り出して話を聞いた。
生配信後、動画は三日残る。メイン利用者層とは時差があるので、Bさんは基本的に生ではなく、アーカイブの安眠動画を追いかけるように再生していた。
利用開始から数日目、とあるチャンネルを開いたそうだ。
「英語の『リラックスASMR』みたいなタイトルの、すごく普通のやつでした。ネイルタッピングとか、マイクにふーって息をかけたり。動画の画面はずっと真っ暗なので、それだけ珍しいなと思いながら寝ました」
「映像がないのって珍しいんだ」
「あくまで、そのサイトでは、ですけど」
ふう、とBさんはため息をついた。再び話し出すまでしばらくかかった。
「……聞きながら寝て、明け方前に起きました。五時間くらい経ってたと思います。まだ配信は続いていて、ワイヤレスイヤホンもつけっぱなしでした」
――ASMRには、「理解できない囁き」というジャンルがあるらしい。耳で聞いた音を言葉として認識してしまうとリラックスできないので、知らない言語や意味のない単語、擬音を囁くだけの音も需要があるという。
「クシュクシュクシュって、何かつぶやいてるなあって思って、寝ぼけながら聞いてたんです」
Bさんの磨かれた爪が、カクテルの入ったグラスをきんきん叩く。
「……それ、日本語でした。」
――苦しめ苦しめ早く死ね……。
そんなささやきを、女の声がずっとずっと繰り返していたそうだ。
がばっと起きたBさんはイヤホンをとった。
もう一度、おそるおそる耳に近づける。
「………………」
どきどきしながら耳をすましたが、囁きはもう聞こえなかったそうだ。
「なんだ、聞き違いか」
「私もそう思ったし、同じようなことを言いました」
きききん、ききききん、と爪がグラスをせわしなく弾く。Bさんはうつむいたまま、グラスを凝視する。
――寝ぼけて変な聞き間違えしちゃったな。
イヤホンを外しながらそう言えば、
『違う』
と後ろからはっきり聞こえたそうだ。
さっきの囁きと、同じ声だった。
Bさんの意識は途絶え、気が付けば朝になっていたそうだ。
例の動画はアーカイブをいくら探しても見つからず、それ以来ふとした瞬間に耳鳴りがする、とのことだった。
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創作です。