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能力のある人がちゃんと評価されれば、それでいいのか?

 エッセイ連載の第5回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 能力がある人は、それがちゃんと評価される社会になれば、ハッピーエンドですが、じゃあ、能力がない人は、どうなるの?

「能力があるのに、差別のせいで認めてもらえない」という映画を見ていて、ふとそんなことを思いました……。

生きづらさへの共感

 男性社会の中で、生きづらさを感じている女性が、その状況をなんとしようともがき、はねのける。そういう映画がよくある。

 私は男性だが、そういう映画を見るのがとても好きだ。

 女性に理解のある立派な男性というわけではない。
 女性の大変さについては、本当にはわかっていないと思う。

 ただ、私は、健常者社会の中で、生きづらさを感じている病人だ。
 健常者のときはまったく気づかなかったが、病人になってみてはじめて、この社会が健常者に合わせて作られていて、健常者にとっては意識もしない自動ドアが、健常者でなくなると立ちふさがる壁になるということを痛感した。

 だから、男性社会で苦労している女性に、共感してしまうのだろう。

 もちろん、女性であることと、病人であることには、大きなちがいがある。しかし、重なり合うところも多いのだ。
 たとえば、「男だって生きるのは大変なんだ。女なんか、男に守られていて、いいご身分だよ」などと言う男が出てきたりする。
 これは「健康だって生きるのは大変なんだよ。病人や障害者はいろいろ優遇されていて、けっこうなご身分だよ」と言われてしまうのと、すごく似ている。
 だから、ムカつく女性に共感せずにはいられない。

能力のない女性はどうなるのか?

 ただ、そういう映画を何本も見ていると、だんだん気になってくることがある。

 そういう映画の多くは「男性以上に能力の高い女性が、女性であるがゆえに評価されず、ふさわしい社会的地位を与えられない」という状況が描かれている。
 そして、「女性であっても、その能力を正当に評価される」ことが、ハッピーエンドとなる。

 それの何が気になるのかというと、「能力のない女性はどうなるのか?」ということだ。

 漫画の『大奥』みたいに、もし男女が逆転した世の中だったとして、「女性社会の中で、能力の高い男性がちゃんと認めてもらえるようになる」という映画を見て、はたして私は、「これこそ理想の世の中だ!」と思えるだろうか?
 私だったら、「男性の能力がちゃんと評価されるようになっても、私は能力がないから、これまで通り、しいたげられたままだ」と、そこまでもなおとりこぼされてしまうことに、深い悲しみを感じてしまいそうだ。

「能力が高い人はちゃんと評価されるべき」    というメッセージ

 もちろん、男性社会における女性差別を描くときに、男性以上に能力が高くても認めてもらえない女性という構図は、とてもわかりやすい。
「ああ、それは差別だな」と、誰でもすぐに理解できる。

 それに、能力の高い女性が認められて、女性の社会進出が進めば、男性社会の偏りがそれだけ緩和され、能力のない女性にとっても暮らしやすくなっていくはずだ。

 だから、どこも間違っていない。

 ただ、こういう映画は、「女性を差別するのはおかしい」というメッセージと同時に、「能力が高い人はちゃんと評価されるべき」というメッセージも発してしまっている。
 そして、能力によって人を序列化することに、意識的にではないが、一役買ってしまっているのだ。

 つまり、「男女という性別に関係なく、能力がちゃんと評価される」=「能力のあるなしで社会的地位が決まる社会」を、よしとしてしまっているところがある。

これが「顔」だったらどうだろう?

 もちろん、いろんな問題を、ひとつの作品であつかうことには無理がある。女性差別がテーマの映画で、能力主義の問題まであつかったら、ややこしくなって、無理が生じるだろう。

 それはそうなのだが、じゃあ、これが「能力」ではなく「顔」だったらどうだろうか?

 ある差別されている人たちがいて、とても美人/イケメンなのに、評価してもらえない。それをがんばって、ちゃんと顔の美しさで評価してもらえるようになるという、差別反対の映画があったとして、素直に感動できるだろうか?

「顔のよしあしで評価って、どうなの?」と思ってしまわないだろうか?

顔で人を評価することのためらい

 今の世の中では、美人やイケメンは、大変に高く評価される。
 だから、少しでも美しくなりたいと、多くの人が努力していて、ダイエットをしたり、メイクの腕を磨いたり、行き過ぎると、拒食症になったり、整形手術がやめられなくなったりする。

 人が外見によって評価されて、外見が劣ると「ただし、イケメンに限る」などと不利益をこうむるのは、まぎれもない事実だ。

 しかし、それでも、「顔で人を評価するのはいけない」と多くの人が思っている。そう口に出して言うこともできる。

 顔で人を判断してしまう人でも、心の中に(本当はこういうことはよくないんだけど)という、ためらいを持っている。

 これは大変なちがいだと思うのだ。

「能力」の場合は、こういうためらいがない。
「人を能力で評価してはいけない」と多くの人が思ったりしていない。
 これはとてもおそろしいことだと思う。

もし本当に全員が能力順に並べられたら……

 能力というのは、ちゃんと測るのが難しい。
 だから、男女差別に限らず、能力があるのに正当に評価されないということは、よくある。
 それでつい、能力がちゃんと正当に評価されることばかりを願ってしまう。

 しかし、もし本当に、全員が能力順に並べられたりしたら、そんな世の中に耐えられる人は少ないだろう。もう「オレは正当に評価されていない!」と世の中を恨むことすらできないのだ。

 映画『ガタカ』で、それに近い世界が描かれている。
 優れた遺伝子を持つ人間が社会の上位に立つ社会だ。
 能力の高さが、科学的に実証されているのだから、文句のつけようがない。

 ても、本当に文句のつけようがないだろうか?

 能力の高さだけで人が評価されるのは、本当はおかしい。
 人間には、能力以外にも、さまざまな魅力がある。
 なんでもできるハイスペックな人だけど魅力がないという人もいるし、なんの取り柄もないけど魅力たっぷりという人もいる。

 いや、魅力のあるなしで判断するのも、同じく問題ありだ。

能力で人を判断することに「ためらい」がほしい

 じゃあ、どうしたらいいのか?

 能力が正当に評価されないのは、いいことではない。
 だから、能力がある人をちゃんと評価することをよしとする風潮に反対することはできない。

 でも、そこに「ためらい」がほしいのだ。

「能力で人を評価するのはあたりまえ」「当然のことで、なにも問題ない」と決めつけずに、少しだけでも、ためらってほしい。
 顔で人を評価するときと同じように。

 人を美人とかイケメンで評価しまうときに、心に持ってしまう「ためらい」
 それを、能力で人を評価するときにも、持ってほしい。
 それだけでも、ずいぶんちがうと思うから。

蛇足だが

 能力というのは美しい。

 私はサッカーが好きで、メッシの大ファンなのだが、それもやはりメッシのプレーが素晴らしいからだ。

 メッシは世界中で愛されている。子どもから大人まで。
 もし、メッシにサッカーの能力がなかったら、これほど愛されることはないだろう。

 しかし、メッシがこれほど愛されているのは、サッカーの能力だけが理由かと言えば、それもまたちがう。
 メッシの人柄、生き方、家族への接し方、寄付などの活動、そんなさまざまなことも、メッシが愛される理由となっている。

 もしメッシの人柄がぜんぜんちがっていたら、人気の質もちがっていたはずだ。少なくとも私は好きになっていないだろう。他にもそういう人は少なくないはずだ。

 能力は美しいし、人をひきつける。それはたしかだ。
 しかし、綺麗事ではなく、実際に、人は人を能力だけで評価しているわけではない。それもまた、たしかだと思うのだ。


 女性差別をテーマにした映画を見ていて感じたことだったので、そのまま書きましたが、今回書いたことは、もちろん、女性差別だけでなく、人種差別など、さまざな差別をテーマにした映画について、共通に言えることです。
 また、映画の話がしたかったわけではありません。
 ただ、「能力があるのに差別してはいけない」ということだけでなく、「能力がなくても差別してはいけない」というところまで描いてくれる映画がもしあったら、いいなあとは思います。


(今回、文中に出てきた漫画と映画)




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頭木弘樹
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