『自分疲れ』 まえがき
まえがき 自分自身がしっくりこない
気に入らない自分
自分でいることに、疲れを感じたことはないだろうか?
たとえば、自分の性格が好きではないとか。
自分の体に不満があるとか。
「どうして自分はこうなのだろう……」と悩んでしまう。
それなのに、その性格や体でずっと生きていかなければならない。
気に入らないなあと思いながら、24時間365日、なんとか折り合いをつけながらやっていくのだから、これは疲れないほうがおかしい。
別人になってみたいと願ったことのない人は、少ないのでは?
ずっと同じ自分という退屈
自分を好きな場合でも、ずっと同じ自分でいるというのは、退屈と言えば退屈だ。
いつも自分の目線で世の中を見て、自分に起きることだけを体験して、自分の人生を生きていく。
ずっと同じ主人公の映画を見続けているようなもので、うんざりしてきてもおかしくない。
自分に対する違和感
自分を好きとか嫌いとかに関係なく、なんとなく、
「自分にとって自分がしっくりこない」
「自分でいることになじめない」
というような違和感を覚えたことはないだろうか?
買ってきた服が、なんとなく自分に合わないような、何かちがうという感じ。
自分とは何なのか?
では、「自分」とは何なのか?
そう問われると、よくわからない。哲学的な問題に聞こえる。
自分とは、よくわかっているものであると同時に、よくわからないものだ。
とりあえず、この体、これは自分だ。
そして、この心、これも自分だ。
では、心と体が自分なのか。
自分とは、心と体なのか?
体の再発見
手や足の小指をケガしたことはないだろうか?
普段は小指のことなどほとんど意識しないし、とくに小指を使って何かしている気もしないが、ケガをしてみると、こんなに小指をいろいろなシーンで使っていたのかと驚かされる。
小指について、いちばん知っているのは、小指をケガした人だ。
健康なとき、人はほとんど体を意識しない。
胃が痛くなって、初めて胃を意識するように、不調になって初めて、その臓器の存在を意識する。
つまり、体についていちばんよく知っているのは、体に問題が起きた人なのだ。
私は二十歳で難病になって、十三年間、闘病した。だから、体というものを、とても強く意識した。再発見した。
そして、体が変化すると心も変化する、ということも体験した。
そういう体験をもとに、体と心について、気がついたことを少しお話してみようと思うのだ。
心と体への文学的アプローチ
心や体については、科学的に語られることが多い。
脳の海馬が記憶に関係しているとか、思春期にはホルモンの分泌によって体が変化するとか。
とても面白いし、有意義だ。
ただ、そういう話は「人間は」という大きなくくりで語られる。個人はそこからはみ出してしまうことがある。
いちばん大切なのは、私だけの心のこと、私だけの体のことなのに。
そういう「個人的なこと」をひろいあげてくれるのが文学だ。
文学は、あるひとりの主人公のことがくわしく書いてあることが多い。その主人公は、自分とはぜんせんちがっていて、共通点がないことも多い。それでも、その主人公の体験や内面が細やかに語られていくと、なぜか共感したり感動したりする。「ここに書かれているのは自分の気持ちだ」とさえ感じることもある。
これが文学の不思議なところだ。個人的なことを突き詰めると、普遍性に到達する。
そういう文学の力も借りるため、今回、文学作品をいろいろご紹介していきたいと思っている(映画や漫画なども)。