人生でがんばりたいのは、そんなことではなかった
どなたが書いたものだったか、申し訳ないことに、もうわからなくなってしまったのが、たしかネットだったと思う。
ある闘病記を読んでいたら、病気に対処するために、当人もいろいろ工夫したり努力したりしていて、それがある程度、うまくいって、ちょっとほっとしたという箇所で、たしかこう書いておられた。
この一文に、私はとても胸を打たれた。
まったくだと思った。
こんなことでがんばりたい人がどこにいるだろう。
しかし、がんばらざるをえない。がんばらないと生きていけない。
よくがんばったなと自分をほめたいときもあるだろう。大きな喜びもあるはずだ。
でも、ちょっとほっとできたときに、むなしさがおそってくる。
自分はいったい何をがんばっているのだと。
このがんばりを、もっと別のこと、たとえば自分の夢をかなえるためとかに使えていたら、どんなによかっただろう。
冤罪で長期間、無実を訴え続けて、ついに認められたというニュースがしばしばある。どれほど大変だったかと思う。想像を絶するがんばりだ。
しかし、冤罪ということは、もともと事件とは関係がないのだ。それなのに、がんばらされたのだ。
人生でがんばりたいのは、そんなことではなかっただろう。
病気とか冤罪とか、極端な場合でなくても、今現在、仕事にしろ、学校にしろ、家庭にしろ、何かすごくがんばっていて、でも、本当はそんなことでがんばりたいわけではないのだ、という人は、たくさんいるだろう。
本当は、もっとぜんぜん別のことでがんばりたいのだと。
あなたは、がんばりたいことでがんばれているだろうか?
それとも、がんばりたくないことで、がんばっているだろうか?
私は後者のほうが多いように思うのだが、どうだろう?
夢のあきらめ方についての本を出したことがある(『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』河出書房新社)。
この本の話を、ある人としていたら、
「じつは自分も夢をあきらめたことがある」
と言い出した。
あるスポーツの選手を目指して、自分のすべてをそこに賭けていたそうだ。
しかし、ケガもあり、夢はかなわなかった。
そして、今はぜんぜん別の仕事についているのだが、その仕事がとても好きで、がんばりがいがあり、結果的にはそのほうがよかったから、夢をあきらめたことはぜんぜん残念なことと思っていない、ということだった。
すごく明るい顔をして元気よくそう言っていたので、私もそうなのだろうと素直に受けとめていた。
ところが、もう帰ろうというときになって、彼は突然、こう言い出した。
「本当はいまだに受け入れられません。選手として生きたかったです。今もがんばっていますが、私ががんばりたかったのは、本当はこんなことじゃなかったんです」
この言葉にもとても感動した。
それまでの明るい顔から一転した、彼の暗い顔に、とてもひきつけられた。こういうことを言える人が好きだと思った。
なぜ、私と話がしたかったのかさっぱりわからなかったのだが、これが言いたかったんだと、最後になってわかった。最後でないと言えなかったのだろう。
会ったのはそのときだけだが、忘れられない人のひとりだ。