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人の話を本気で聞いたことがありますか?

エッセイ連載の第9回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

これまで、「話す」ことについて何度か書いてきましたが(連載の1回目〜4回目)、
今回は、「聞く」ことに関してです。

前回にひきつづき、宮古島で気づいたことです。

宮古島でも入院

 また宮古島の話だが、私は宮古島でも入院してしまった。

 さいわい、大きな総合病院があり、医療面では何の問題もなかった。
 むしろ、全般的に親切で、すんなり入院できて助かった。

看護師さんがすわりこむ

 驚いたのは、入院してからだ。

 お年寄りが看護師さんに何か話しかけると、看護師さんは立ち止まって聞くのではなく、そばに腰を下ろして、「さあ、じっくり聞きますよ」という態度で聞く。
 廊下でも病室でも。

 それがどうしたと思うかもしれないが、そんな姿は東京で入院しているときには見たことがない。
 入院経験が(残念なことに)豊富なだけに、これまで見たことのない光景に驚いたのだ。
 看護師さんというのは忙しい、次にしなければならないことがつねにあって時間に追われている感じだ。無駄話に使えるような時間的な余裕はないはずだ。

 なのに、腰をおろす。
 そんな「じっくり聞きますよ」という態度をとってしまったら、ただでさえ長いお年寄りの話が、ますます長くなってしまうのではないか。

 お年寄りの話は、病状についてなどの大切なことではなく、たいていただの世間話だ。孫がどうしたとか。
 しかし、そういう話を聞く看護師さんの態度に、あせっている様子はない。今にも動き出しそうな感じではなく、ちゃんと腰をすえて、落ち着いている。

 そんなにゆっくり話を聞いていて、看護の仕事に差し支えないのか。自分が苦しんでナースコールしたときに、途中でお年寄りにつかまって、長話なんかされていると困ってしまうのだけど、とそんなふうに心配してしまった。

お年寄りの話が短い!

 ところが、お年寄りの話が短いのだ。同じ話を何度もくり返すことがなく、一回で終わるので、案外なほどあっさり終わる。
 それで、看護師さんはまた立ち上がって歩き出すので、実際にはそんなに時間をとられることはない。
 だから、問題ないのだ。

 そういう光景を何度も目にして、だんだん不思議になってきた。
 なぜ話が短いのか?
 宮古島のお年寄りは話がくどくないのだろうか?
 しかし、そんな地域差があるとは思えない。

なぜ話がくどくなるのか?

 しばらくして、ようやく気がついた。
 私は、年をとったら話がくどくなるものと思っていた。
 しかし、そうではなかったのだ。

 年をとると、誰も話をちゃんと聞いてくれなくなる。
「はい、はい」という感じで聞き流される。
 だから、くどくなってしまう。

 若くたって、話をちゃんと聞いてもらえない人は、話がくどいものだ。
 くどくなると、ますます聞いてもらえなくなるので、ますますくどくなり、それでますます聞いてもらえなくなる、という悪循環を起こしている人が多い。

 身近にもきっとそういう人がいるだろう。
 あなた自身も、これは面白いぞという話を人にしたとき、ろくに聞いていない感じで、思っていたような手応えがなかったら、なんだかものたりなくて、ついつい、もう一度、同じ話をしたくならないだろうか?
 これは誰でもそうではないかと思う。

 他人は、自分の話を、自分が思うほどにはちゃんと聞いてくれない。それは仕方のないことだ。よほどのイケメンなら、「昨日、コンビニに行って……」なんて話でも、キャーキャー熱心に聞いてもらえる。でも、普通は、よほど関心を引く話でなければ、相手の耳は立たない。
 それでも、上司とか取引先とかが話しているのなら、仕方なしに熱心に聞くふりをする。しかし、高齢になって引退状態になると、そんなふうに熱心に話を聞いてくれる相手はぐんと減ってしまう。
 お年寄りの話がくどくなるのは、それも大きな理由のひとつなのではないだろうか?

話が成仏しない

 東京の病院の待合室で見かけたお年寄りを思い出す。
 ひとりで車椅子に乗っていた。若い頃にヨットに乗って海にのりだした話を何度もしていた。
 誰もちゃんと聞いていなかった。
 迷惑そうに顔をそむけていた。
 お年寄りは、同じ話を何度も何度もくり返していた。

 あのとき、誰かが、一度でも、ちゃんと本気でじっくり話を聞いてあげていたら、その一度で、あのお年寄りは満足して、話をやめたのではないだろうか?
 そう思うと、とても申し訳ない気がした。

「ああいうお年寄りの話をうっかり聞くと、つかまってしまって、際限なく聞かされるよ」と忠告する人もいる。
 実際、そういうことは多いのだろう。
 しかしそれは、ちゃんと聞いてもらなかった話が、そのお年寄りの中にたくさんたまってしまっているからではないだろうか?
 話が成仏していないのだ。

この先だれも自分の話を本気で聞いてくれないとしたら……

 私は13年間の闘病中、自宅療養している期間はひとりでひきこもっていたから、ほとんど誰ともしゃべらなかった。ひさしぶりに声を出そうとすると、のどがからんで、うまく声が出なかったりしたものだ。
 しかし、まだ若かったから耐えられた。いつかまた誰かと話ができるだろうという、漠然とした未来への期待はあったのだと思う。
 しかし、もうそういう未来が期待できないとしたら、どんなにさびしいかと思う。

つい心ない聞き方を

 先にも書いたように、これはお年寄りに限らない話だ。
 年をとると、話をちゃんと聞いてもらえなくなりやすいというだけで、若くても、ちゃんと話を聞いてもらえない人はいるし、ちゃんと聞いていない人もいる。

 自分をふり返ってみても、本気でちゃんと人の話をじっくり聞いたことがあるだろうか? と思う。
 もちろん、関心のある相手の話なら熱心に聞いている。好きな相手とか、尊敬する相手とか、あるいは逆に危険な相手とか。
 しかし、そうではなかったら、そこまでちゃんと聞いていないのではないか。
 相手が、ものたりなくて、つい同じ話をくり返してしまうような、そんな心ない聞き方をしてしまっているのではないか。

「あれほどちゃんと話を聞いてくれた人はいなかった」

 カフカにこんなエピソードがある。

 また、カフカはとても聞き上手でした。聞き上手になることで、会話の困難をなんとか切り抜けようとしていたのかもしれません。しかし、次のようなエピソードからは、そんな方便のための聞き上手というのではなく、もっと真摯なものが感じられます。
 カフカと同じ療養所に入っていた心気症の青年が、感激して人に語ったそうです。
「あの人はちゃんと聞いてくれたんです。病気の生活がどんなものかを。ぼくの生涯で、あれほどちゃんと話を聞いてくれた人はいなかった。ぼくの苦しみをあれほど理解してくれた人は誰もいなかった」
 その言葉で医師のクロップシュトックはカフカを知り、後にカフカの最期を看取るまでの友人となります。

『絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ 文豪の名言対決』草思社文庫

 このエピソードを最初に知ったとき、じつは意味がよくわからなかった。
「人のペットの話と病気の話ほどつまらないものはない」と言ったりするから、たしかに、病気の話をちゃんと聞いてくれる人は少ないだろう。まして、心気症ということになると、気のせいということでますます軽視されやすい。

 しかし、最初の一回くらいは、誰でも話を聞いてくれるのではないかと思った。
 カフカはいったいどんな聞き方をしたのかと、不思議だったのだ。

 しかし、最初の一回でも、人はそうそう本当にはちゃんと耳を傾けないものだ。聞き流してしまう。
 カフカは、ただ、本当にちゃんとじっくり聞いたのだろう。
 そういう人は、他に誰もいなかったのだ。

人の話を聞くことの難しさ

「聞く力」というようなことが言われたりするが、聞くというのは難しいものだ。
 人に対して、本当に関心を持つということが難しい。
 互いに関心を持てず、でも関心を持ってほしいと思っている。そういう人と人の間に会話が交わされ、どちらも本当には満足できず、また相手を変えて同じ話をしたりする。
 そんなふうにして、私たちは話して、聞いているのかもしれない。

 できることなら、宮古島のお年寄りのように、いつまでもちゃんと話を聞いてもらえて、すっきり話した足りた気持ちで生きていきたいものだ。
 そして、自分もそういう聞き手でありたいものだ。



 このエッセイをさらに広げて、
「聞くこと」というテーマで、
 10分ずつ×6本で、計1時間、お話しさせていただきました!
 もしよかったら、お聴きください。




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頭木弘樹
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