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生きてることが辛いなら、を聴いて…
生きてることが辛いなら / 森山直太朗
生きてることが辛いなら
いっそ小さく死ねばいい
恋人と親は悲しむが 三日と経てば元通り
気がつきゃみんな年とって
同じとこに行くのだから
生きてることが辛いなら
わめき散らして泣けばいい
その内夜は明けちゃって疲れて眠りに就くだろう
夜に泣くのは赤ん坊だけって決まりはないんだし
生きてることが辛いなら
・・・
このように続いていくこの歌が。
いつものわたしには、見つけられなかっただろう
このたまたまは、偶然か、必然か。
ついこの間、凄まじく、落ちた。
朝起きてから体が上がらず、死にたい、死ねる、死のう、なんてずっと考えて涙を流した日があった。
死のうと思っても、雨に打たれたいと思った。
打たれていたら、雨がとても激しくなってきた。
死のうと思っても、周囲の目が気になった。
死のうと思っても、誰かにこの思いを吐き出したくなった。
死のうと思っても、お風呂に入って温まりたかった。
これで、ついに、と思っても、
髪をドライヤーで乾かしたくなった。
そしたら、お腹も空いてきた。
インスタントカレーうどんを2本ずつくらい眺めながら、うどんに絡まっている黄色が美しいなぁと思いながら、ゆっくりと食べた。
死にたい、死のうと思っても、
本能は生きようとしている身体に、驚いた。
そして、いずれもうすぐ死ぬんだし、と、考えながら目の前のことをしていると、
目の前のことに、夢中になった、、、
他のことは何も考えず、ただ、目の前のことに。
この感覚で、世の中を歩いてみるのはどうだろうと思った。
いずれすぐ、(100年後には)死ぬのだし。
身も心も、自然に心地いい状態を感じられたら、いつ死んでも納得できるなと思えば、安心した。
なぜだろう。
わたしはずっと死が怖かった。
だから、避けてきた。いい年まで。
だからこそ、「生きよう」と一生懸命だった。
でも、そうやって生きているのが、生きようとしなければならないのが、辛くなったのだ。
そんなことを考えていた時に、この歌をたまたまYouTubeでお見かけした。
冒頭で、《いっそ小さく死ねばいい》が聞こえた。
まさか曲の冒頭で、死ぬことを認められた…!
それはとても、安心したのだ。
変な思い込みで、ヒット曲を生み出してきた人の音楽には、「希望に満ち満ち」「前向き、未来は明るいの」というのがわたしにはあったので、あまり興味が持てなかった。(たまには良い◎)
しかし、まさか、こんなにも希望のない思いを、ただ許容するだけの音楽があっただろうかと、この動画に釘付けになった。
この歌詞が、もしも歌の後半にあったなら、
私はすぐに、見るのをやめていたと思う。
心を許容されることも、なかったと思う。
わたしはこの落ちた日が、今まで全く受け止められなかった「死」というものを自分で受け止められた、大きな一歩になったと思っている。
そして、それを待っていたかのような森山直太朗さんのこの音楽に包まれて、わたしは死ぬまで、生きることができると思う。
死ぬまで生きれば、それでいい。