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あさにっき69
おはようございます。
少しスッキリしている朝です。いや、昨日の夕方からつきものが取れた感覚があります。
理由も、分かっています。
できないと認めること、わからないと認めること、私には当てはまらないと認めること
わたしはこれが、できなかった。
すべてを「できるように」工夫する努力を、すべて「わかるように」なる努力を、すべて「当てはまる」と思わないと、私は成長しないんだと、信じて疑わなかった。
でも、なんだか違うような気がしました。
たしかに成長の一つではあると思うのですが、できないことができるようになる、わからないことがわかるようになるだけが、成長ではない。
ましてや、全部当てはまることが成長ではない。
つまり、「全能」が、成長だと、わたしは思っていたんですね。
それをノートに書いた時に「そんなわけあるかーい」とツッコミが入りました。笑
まぁそう思い込んだのは、深く傷ついてきたことや、嫌われてきたことがあるんだとは思いますが、昨日や今日、こうして言葉で気づけたことは、わたしにとって大きな意味があります。
できない、わからない、当てはまらない
これを認めることは、人生を諦めることであって、思考の放棄・停止だ、やめてはならない!
と、必死で必死で、バタバタと頭の中でずっと、騒いでいたわけです。
もしそんなことをしたときには、まるで罪人かのように自分を罵っていました。責めていました。
でも、違う。
全能になることが成長だとしたのなら、そういう教則本を普及させて、全員が全能になればいい。もしそれが本当ならば、誰も成長していないということを証明することにもなる。全能な人は、いないからだ。
できない、わからない、当てはまらないを認めることはとても、勇気がいる。
自分が不安定になったかのような感覚にもなる。
でも、もうやっていいのだ。
少しでもわたしがやりたいと思ったり、喜びにつながる可能性があるなら、もちろんやってみてもいい。
ただ、全能を目指すことは、もうやめていい。
もし、それが真実になる時が来たとしたら、全能になることをまた、目指せばいい。
昨日の自分より、少し違う視点を持つ、少し成長する、読解力をつける、筋力をつける、そのようなことを成長と呼び、
全能さんは、一度捨てておこう。
もういいよ、ありがとう。おやすみ。
今日も、すっきり1日を😊